1話「休日とは、何をすればいい」
日高樹里、二十六歳。
不動産会社の営業社員であり、六年前まではレディースチーム「Rose girls」の総長だった女である。
仕事で困ることは、ほとんどない。
商談前には相手企業の情報を頭に入れ、想定される質問にはあらかじめ回答を用意する。急な予定変更が起きても、優先順位を組み直せばいい。
問題が起きたなら、原因を突き止めて対処する。
それが樹里のやり方だった。
「日高さん。それ、明日やるつもりですか」
金曜日の夕方。
帰り支度をしていた樹里は、手にしていたファイルへ視線を落とした。
声をかけてきたのは、同じ営業部の神谷だった。
『来週の商談で使用する資料です。確認しておこうと思いまして』
「今日中に必要ですか」
『いいえ。期限は月曜日です』
「では、会社に置いていってください」
即答だった。
樹里はファイルを持ったまま、神谷を見る。
『自宅で目を通すだけですが』
「それを仕事と言います」
『読むだけです』
「仕事の資料を読むことも仕事です」
まるで反論を予測していたかのように返され、樹里は口を閉じた。
神谷は机の上へ手を差し出している。
渡せ、ということらしい。
樹里は数秒考えた末、その手にファイルを載せた。
「明日は会社に来ないでください。資料も開かないでください」
『元々、出勤する予定はありません』
「日高さんの場合、予定がなくても来るでしょう」
『必要があれば』
「必要はありません」
再び即答された。
「明日は、仕事をしないで休んでください」
休む。
言葉の意味は分かる。
身体や精神の疲労を取るため、活動を中断すること。
だが、具体的に何をすれば、その状態になるのか。
樹里にはよく分からなかった。
『承知しました』
分からないまま、ひとまずそう答えた。
翌朝六時。
樹里は普段と同じ時間に目を覚ました。
軽く走り、シャワーを浴び、洗濯機を回す。室内を掃除し、朝食を取り、食器を片づけた。
時刻は八時十二分。
洗濯物を干し終えた樹里は、静まり返った部屋の中で立ち尽くした。
掃除は終わった。
冷蔵庫の中身も確認した。日用品の不足もない。
仕事はするなと言われている。
ならば本を読もうかと考えたが、本棚にあるのは不動産、税務、営業、経営に関するものばかりだった。どれを選んでも、神谷の言う「仕事」に含まれる可能性が高い。
テレビをつける。
知らない芸能人たちが笑っていた。
何が面白いのかを理解する前に、五分で消した。
ソファに座ってみる。
何も起きない。
当然だった。
七分後、樹里は立ち上がった。
休日とは、随分と難しい。
予定が決まっていないことが、これほど落ち着かないとは思わなかった。
樹里はテーブルに置いたスマートフォンを手に取る。
誰に尋ねるべきかを考え、連絡先を一つ選んだ。
『休日とは、具体的に何をすればいい』
送信してから、三十秒も経たずに着信が入った。
『総長、今どこ?』
電話に出るなり、切迫した声が聞こえてきた。
『自宅だ』
『本当に? 会社じゃなくて?』
『なぜ休日に会社へ行く』
『それを総長が言う?』
電話の相手は櫻井陽菜。
現在は同じ会社で働く後輩であり、かつてRose girlsで樹里の隣に立っていた副総長でもある。
会社では樹里を「日高先輩」と呼び、節度を守っている。だが、二人きりになれば昔の呼び方へ戻り、正面から遠慮なく文句を言う。
樹里にとって、そういう人間は多くなかった。
『質問に答えろ。休日は何をすればいい』
『急にどうしたの』
『神谷さんから、今日は仕事をせずに休むよう言われた』
『うん。神谷さん、正しい』
『しかし、休むためにするべきことが分からない』
電話の向こうで沈黙が流れた。
その後、小さく息を吸う音が聞こえる。
『総長』
『何だ』
『そこで待ってて』
『何に』
『いいから、絶対に仕事しないで待ってて!』
通話が切れた。
質問への回答は得られなかった。
樹里が画面を見ていると、今度はLINEの通知が届いた。
陽菜ではない。
『陽菜から聞いた。総長、ついに休み方まで忘れたの?』
中村美園からだった。
美園もまた、Rose girlsの時代から樹里と陽菜を知る一人である。
現在は自分の店「Rose」を切り盛りしているが、総長を総長とも思わない物言いは、昔から何一つ変わっていない。
『忘れた覚えはない』
『じゃあ、休める?』
樹里は返信しようとして、指を止めた。
休めるのかと聞かれても、その方法を尋ねたばかりである。
『今から陽菜と行くから、逃げないでね』
『自宅から逃げる理由がない』
『仕事を見つけて逃げるでしょ』
言い返す言葉を考えている間に、やり取りは終わったらしい。
樹里はスマートフォンを伏せた。
陽菜たちが来るまでに何をするべきか。
来客用のカップを確認し、湯を沸かす。部屋は既に片づいているが、念のためテーブルを拭いた。二人が昼食を取っていない可能性を考え、簡単に用意できるものがあるか冷蔵庫を開ける。
そこで、樹里は手を止めた。
誰かを迎える準備はできる。
必要なものを考え、整えることもできる。
やるべきことがあれば、迷わない。
だが、自分一人のために時間を使えと言われると、途端に何も思いつかなくなる。
それを不自然だと考えたことさえ、これまではなかった。
十時ちょうど。
インターホンが鳴った。
玄関の扉を開けると、陽菜と美園が並んで立っていた。
陽菜は樹里の姿を見るなり、眉を寄せる。
『総長。それ、仕事に行く服じゃない?』
樹里は自分の服装を確認した。
白いシャツに黒のスラックス。ジャケットは着ていない。
『私服だ』
『ジャケットを脱いだだけで私服って言わないから』
『会社にはこれで行っていない』
『そういう問題じゃないんだよね』
美園が樹里の横を通り、当然のように室内へ入った。
リビングを見回し、きれいに整えられたテーブルへ目を向ける。用意されたカップと茶菓子を見つけると、呆れたように息を吐いた。
『私たちを迎える準備してたでしょ』
『客が来るなら当然だ』
『今日の禁止事項、一個増えた』
『禁止事項?』
陽菜も部屋へ入り、持っていた紙袋をテーブルに置いた。
中から太い黒のペンと一枚の紙を取り出す。
紙の中央へ、陽菜は大きな文字を書いた。
――総長休日更生計画。
『陽菜。この名称は何だ』
『今日の予定』
『休む日に予定を作るのか』
『総長は予定がないと落ち着かないでしょ』
否定できなかった。
陽菜はその下に、三つの項目を書き加えていく。
一、仕事の連絡を見ない。
二、誰かの世話をしない。
三、成果を求めない。
書き終えると、陽菜は満足そうに紙を掲げた。
『今日はこれを守ってもらいます』
『二つ目には異議がある。必要な状況でも無視しろということか』
『もう面倒くさいなあ』
『始まって五分で規則の穴を探さないでよ、総長』
美園が樹里の手からスマートフォンを抜き取った。
反射的に取り返そうとした樹里だったが、美園は背中へ隠す。
『仕事の連絡を見るから、これは没収』
『緊急の連絡が入る可能性がある』
『本当に緊急なら、陽菜のところにも連絡が行くでしょ』
『それはそうだが』
『はい、決まり』
美園がスマートフォンを自分のバッグへ入れる。
かつてなら、樹里の所持品を勝手に取り上げようと考える者はいなかった。
今、それを平然と実行する二人を前にして、樹里は抵抗する気になれなかった。
『それで、何をする』
『買い物して、ご飯食べて、適当に歩く』
陽菜が答える。
『購入するものは決まっているのか』
『決まってない』
『食事をする店は』
『まだ決めてない』
『目的地は』
『だから、適当に歩くの』
樹里は眉間にわずかに力を入れた。
目的も、計画も、成果もない。
それでは、一日が終わったときに何が残るのか。
陽菜と美園は、そんな樹里の顔を見て笑っている。
二人にとっては、予定が決まっていないことさえ楽しみの一つらしい。
樹里には、まだ理解できなかった。
『一つ確認したい』
『何?』
玄関へ向かおうとしていた陽菜が振り返る。
樹里は、テーブルに置かれた「総長休日更生計画」へ目を落とした。
『今日一日、私は何の役に立てばいい』
陽菜の表情から笑みが消えた。
美園も何も答えない。
二人は一瞬だけ顔を見合わせ、それから樹里を見た。
休日の過ごし方を知らない。
問題は、ただそれだけではなかったらしい。




