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3話『何もしなくても」

『……そうか』


 赤い薔薇のシールを受け取った樹里は、それ以上の言葉を返せなかった。


 女の子は満足したように笑うと、母親のもとへ戻っていく。


「本当にありがとうございました」


 母親はもう一度深く頭を下げ、女の子の手を握った。


 遠ざかっていく二人の背中を、樹里は黙って見送る。


 小さな手が何度も振られていた。


 樹里が控えめに手を上げて応えると、女の子は最後にもう一度、元気な声を響かせた。


「こわいおねえちゃん、ばいばい!」


 周囲にいた何人かが、樹里へ視線を向ける。


 陽菜が耐えきれずに吹き出した。


『よかったね、総長。懐かれてるじゃん』


『どこを見てそう判断した』


『怖いお姉ちゃんって、二回も呼んでもらえた』


『それは懐かれているとは言わない』


『でも、最後は笑ってたよ』


 美園も口元を緩めている。


『総長、子供にも怖がられるんだね』


『お前たちは私を何だと思っている』


『怖いけど優しいお姉ちゃん』


『怖いは必要ない』


『そこは受け入れるんだ』


 陽菜と美園が顔を見合わせ、また笑った。


 樹里は二人から視線を外し、手の中にある薔薇を見る。


 小さなシールだった。


 何かに使えるわけではない。金銭的な価値もない。


 それでも、裸のままバッグへ入れる気にはなれなかった。


 樹里は自分のバッグを開き、黒い革張りの手帳を取り出す。


『総長』


 陽菜の声が低くなった。


『何だ』


『それ、仕事の手帳じゃない?』


『予定を管理するためのものだ』


『今日は仕事禁止って言ったよね』


『開かなければ問題ない』


『今から開こうとしてるじゃん』


『シールを保管するだけだ』


『規則の穴を見つけるの、うますぎない?』


 樹里は陽菜の指摘を聞き流し、手帳の表紙を開いた。


 最初のページの内側。


 何も貼られていなかった黒い部分へ、赤い薔薇を置く。


 曲がらないよう位置を確かめ、指先で静かに押さえた。


『そんなところに貼るの?』


 美園が覗き込む。


『ここなら、なくさない』


『総長、薔薇が好きだったんだ』


 陽菜がからかうように言った。


 樹里はシールから目を離さないまま答える。


『……昔から、縁があるだけだ』


 背中にある薔薇は、自分の目では見えない。


 鏡を使わなければ、その形を確かめることもできない。


 だが、この薔薇は違う。


 手帳を開けば、いつでも見ることができる。


 背負うために刻んだものではない。


 守ろうとした誰かから、感謝とともに渡されたものだった。


 樹里は手帳を閉じ、バッグへ戻す。


『行くぞ』


『どこに?』


『美園が案内所へ行っている間に、昼食を取る店を確認した』


『仕事禁止って言ってるのに、何で調査してるの』


『通路から見ただけだ』


『あたしたちが見てないところでも休まないんだから』


 呆れる陽菜の隣で、美園が一つの店を指さした。


『じゃあ、そこにしよう。ちょうど空いてる』


 樹里が確認していたのとは別の店だった。


『待て。そちらは確認していない』


『だから、そっちにする』


『どういう理由だ』


『総長が調べてないから』


『理由になっていない』


 二人は樹里の返事を待たず、店へ向かって歩き始めた。


 樹里は一度だけ息を吐き、その後を追った。


 三人が入ったのは、買い物客で賑わうカフェだった。


 窓際の席へ案内され、メニューが配られる。


 樹里は値段と内容を順番に確認した。


『総長、何食べる?』


『コーヒーでいい』


『昼ご飯は?』


『さほど空腹ではない』


『朝、何食べたの』


『トーストと卵とサラダだ』


『普通に食べてる』


 陽菜は安心したような、残念そうな顔をした。


『じゃあ、甘いものは?』


『必要ない』


『必要かどうかで選ばないの』


 美園がメニューを樹里の前へ広げる。


 そこには、季節限定と書かれた果物のパフェが載っていた。


『これ、三人で食べよう』


『三人分を注文するのか』


『一つを三人で分けるの』


『量が少なすぎる』


『食べないって言ったの、総長でしょ』


『衛生面にも問題がある』


『別のスプーンを使えばいいじゃん』


 陽菜が店員を呼び、樹里の同意を得ないままパフェと三人分の飲み物を注文した。


 運ばれてきたパフェには、苺や桃、色鮮やかなソースが盛りつけられている。


 美園が最初に一口食べ、陽菜へ回す。


 そして最後に、樹里の前へ置かれた。


『はい、総長』


『私は頼んでいない』


『三人で食べるって言ったでしょ』


『お前たちだけで食べればいい』


『一口だけ』


 陽菜がスプーンを差し出してくる。


 樹里はパフェと陽菜を交互に見た。


 断る理由はいくらでも考えられる。


 だが、食べたところで大きな問題が起きるわけでもない。


 樹里は新しいスプーンを取り、上に載っていた苺をすくった。


『どう?』


『甘い』


『見れば分かる感想じゃなくて』


 樹里はもう一口食べる。


『……悪くない』


『それ、総長の最大級の褒め言葉だよね』


 陽菜が笑い、美園も満足そうにうなずいた。


 三人の間を、しばらく取り留めのない会話が流れた。


 買った服のこと。


 美園の店で起きた出来事。


 陽菜が最近食べた料理のこと。


 仕事の話になりかけるたび、陽菜が樹里を止めた。


 結論を出す必要も、何かを決める必要もない会話。


 樹里は聞きながら、ときどき短く返事をした。


 時間だけが過ぎていく。


 以前なら、無駄だと考えていたはずだった。


 しかし今は、不思議と席を立とうとは思わなかった。


『そういえば』


 陽菜がコーヒーカップを置く。


『さっきの質問だけど』


『何だ』


『今日一日、何の役に立てばいいのかってやつ』


 樹里の視線が、わずかに止まる。


『あれ、答えてなかったから』


『もう答えは出ただろう。迷子を保護した』


『違うよ』


『何が違う』


『迷子を見つける前の話』


 陽菜は樹里をまっすぐに見た。


『あたしたちは、総長に何かしてもらうために来たんじゃない』


『私が連絡したから来たのだろう』


『うん。休み方が分からないなんて言うから、心配になって来た』


『ならば、問題を解決する目的があったはずだ』


『本当に面倒くさいね、総長』


 そう言いながらも、陽菜は笑っていた。


『問題が解決しなくても、今日は来てたよ。総長と一緒に出かけたかったから』


 樹里は答えなかった。


 美園が静かに続ける。


『誰かの役に立つことと、その人のそばにいていいことは、別だよ』


『……別?』


『総長が仕事をしてなくても、誰も守ってなくても、何もしてくれなくても、私たちは一緒にいられる』


『何もしない人間を必要とする理由がない』


『必要だから一緒にいるんじゃない』


 美園の声は穏やかだった。


 だからこそ、その言葉は樹里の内側へ深く入ってきた。


『一緒にいたいから、いるだけ』


 かつての樹里には、役割があった。


 総長として仲間を守ること。


 先頭に立つこと。


 誰より強くあり、迷わず決断すること。


 今の樹里にも、役割がある。


 会社で結果を出し、任された仕事を終わらせること。


 誰かに必要とされるには、その期待へ応え続けなければならないと思っていた。


 何もしない自分のそばに、誰かがいる。


 そんな関係の意味を、樹里は知らなかった。


 けれど今日、陽菜と美園はここにいる。


 樹里に助けを求めたわけでも、何かを任せたわけでもない。


 ただ、一緒にパフェを食べ、意味のない話をしている。


 それだけだった。


 それだけなのに、二人は笑っていた。


『……理解できない』


 樹里が正直に言うと、陽菜は声を上げて笑った。


『そこは分からないんだ』


『理屈が通っていない』


『じゃあ、分からないままでいいよ』


『いいのか』


『今日一日で全部分かったら、次の休日いらなくなるでしょ』


 樹里は眉を寄せる。


『次もやるのか』


『一日で更生できると思ってる?』


『私は問題を起こしていない』


『休めない時点で問題なの』


 美園がスマートフォンを取り出した。


『記念に写真撮ろう』


『何の記念だ』


『総長が初めて休日を過ごした記念』


『初めてではない』


『じゃあ、初めて休日らしいことをした記念』


 美園が三人の中央へスマートフォンを置き、撮影の準備をする。


 樹里は席を移動しようとしなかったが、陽菜が椅子ごと距離を詰めてきた。


『総長、もう少しこっち』


『近い』


『写真に入らないから』


『撮影する必要性が――』


『成果を求めない』


 陽菜に言われ、樹里は口を閉じた。


 美園が反対側から肩を寄せる。


『総長、笑って』


『急に言われても無理だ』


『じゃあ、そのままでいい』


 撮影音が鳴った。


 画面の中で、陽菜と美園は笑っていた。


 樹里だけが、状況を理解できていないような顔をしている。


『撮り直す?』


 美園が尋ねる。


 樹里は写真をしばらく見つめた。


 自分は笑っていない。


 だが、両隣にいる二人は楽しそうだった。


『いや。これでいい』


『総長、全然笑ってないよ』


『二人が笑っている。それで十分だ』


 陽菜と美園が、一瞬だけ黙った。


 すぐに二人とも、先ほどの写真よりも大きく笑い始める。


『何がおかしい』


『総長がそういうこと言うから』


『事実を言っただけだ』


『はいはい。そういうことにしておく』


 カフェを出たあとも、三人は目的を決めずに歩いた。


 何も買わない店へ入り、必要のないものを眺め、ときどき立ち止まった。


 樹里には最後まで、休日の正しい過ごし方は分からなかった。


 それでも、その日が無駄だったとは思わなかった。


 翌朝。


 樹里は黒い手帳を開いた。


 内側に貼られた赤い薔薇を確認する。


 その隣に、昨日撮った三人の写真を小さく印刷して貼ることを考えた。


 休日に仕事をする予定はない。


 掃除も洗濯も、急ぐ必要はない。


 樹里はスマートフォンを手に取り、陽菜と美園がいるグループへLINEを送った。


『次回の休日について、候補日を三日提示してほしい』


 すぐに陽菜から返信が届く。


『休むのに日程調整から入るのやめて』


 続いて美園からも届いた。


『でも、また三人で出かけたいんでしょ』


 樹里はしばらく画面を見つめた。


 否定する理由を探す。


 けれど、昨日の写真を思い出すと、見つからなかった。


『……否定はしない』


 送信すると、二人から同時に笑っている顔のスタンプが返ってきた。


 休日の過ごし方は、まだ分からない。


 けれど、誰と過ごしたいかだけは、もう迷わなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


本作に登場する日高樹里・櫻井陽菜・中村美園の再会と、その後の人生を描いた長編『特攻服を脱いだあとで』も、全話完結済みで掲載しています。


三人がなぜ離れ、どのように再び隣へ立つことになったのか。ご興味を持っていただけましたら、ぜひ本編もお読みください。

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