第九話:黒い粒子
森の中で座した肇は、木々の隙間から息を殺し、こちらへ走る獅堂を肉眼で捉えていた。
(アイツ……めちゃくちゃ速いな。傍白とほぼ並んで動いてやがる。本当に人間か? ああ、いや、転生者だったな……)
獅堂の人間離れした身体能力を網膜に焼き付けながら、肇はヒトガタとのスペック差を冷静に分析する。
(おそらくだが、純粋なスピードだけならヒトガタの方が数段上だ。だがパワーの限界値までは正確に測れない。となると、取るべき選択は一つ――)
「奇襲だな」
肇は物静かに立ち上がり、周囲で最も葉が鬱蒼と茂る大木へと目を向けた。
「あの位置なら、いけるか……」
大量の葉が連なる太い木の枝を凝視しながら、右手に全神経を集中させる。
(体力はまだある。魁の家も目と鼻の先だ……大丈夫。僕なら、ゼロからでも創り出せる……!)
かつて木から落下した際の、あの脳が浮くような感覚を脳内で再現し、ゆっくりと掌を広げた。
「出ろ……出ろ……。よし、出た」
肇の眼前に物質化したのは、あの転落事故の瞬間に咄
嗟に生成した、あの青くて巨大なクッションだ。
「よし、あとは……ヒトガタ! あそこの木を切り倒せ」
視線の先、獅堂の進路線上にある大木を指さし、静かに命じる。
主の意図を汲んだヒトガタが、影のように動いた。
一太刀。
爪が閃いた瞬間、大木が爆音を立てて傾ぎ、なぎ倒される。
立ち込める砂埃と、森を震わせる環境音。
「これで、舞台は整った……」
◇
獅堂は不快そうに顔を歪め、五感を鋭く研ぎ澄ませながら、鬱蒼とした森を進んでいた。
「クソ…この辺りの筈なんだがな……!」
『案外、もっと奥に逃げ込んだんじゃねぇの?』
獅堂と、その傍白であるピエロのギーツは、完全に肇の気配を見失っていた。
「いや、確かにここら辺にいるはず――」
『……ッ!』
獅堂が思考を巡らせるより早く、ギーツが異音を察知した。
木々が激しく崩落する重低音。
その方向を睨み据え、ギーツは仮面の下で凶悪に唇を釣り上げる。
二人は迷うことなく、音の源流へと全速力で地を蹴った。
「木が…倒れてる?」
だが、辿り着いた場所に広がっていたのは、ただ無残に切り倒された大木の残骸だけだった。
肇の姿も、あの不気味な白い傍白の影もない。
(どこへ消えやがった…? あのガキ……)
不審に思い、周囲の気配をさらに深く探ろうとした、その刹那。
獅堂たちの真上――頭上の枝葉から、ガサリと明確な歪みが響いた。
「そこかぁ! やれ、ギーツ!!」
『切り刻んでや―――ッ!!』
反射的に見上げ、迎え撃とうとしたギーツの動きが、一瞬だけ硬直する。
彼らの視界に飛び込んできたのは、肇でもヒトガタでもなかったからだ。
「なんだこれ……? クッショ――」
「…余所見すると思ったぜ、バカが」
「ガッ……!?」
落下する巨大なクッションに意識を奪われた一瞬の隙。
背後の死角から肉薄した肇は、獅堂の首元へ容赦なく腕を回し、その頸動脈を力任せに締め上げた。
(コイツ……! 転生者の、肉体の弱点を正確に狙ってやがる……!)
「うぐ……ガ、ガッ、アァ……!!」
必死に暴れ回る獅堂の巨躯から振り落とされないよう、肇は全力を込めてその背に組み付く。
『テメェ……! そっちにいやがったのか!!』
相棒の危機に即座に反応したギーツが片手斧を振りかざす。
しかし、その刃が肇に届くことはなかった。
『な…これ、は……!?』
ギーツの胸を、背後から突き抜けた白い四本の鋭利な指。
ギーツが首を軋ませて振り返ると、そこには頭上のクッションを内側から突き破って出現した、ヒトガタの姿があった。
「ただのクッションを…囮に使っただけだと思ったか…? 甘ぇんだよ、ボケが……!」
血走った目で獅堂を睨み据え、肇は汗を滴らせながら腕の締め付けをさらに強める。
胸を完全に貫かれたギーツは、絶叫とともに白い光の粒子へと崩壊し、霧散していく。
「ヒトガタ!! もう限界だ、早くこいつを殺れ!」
獅堂の抵抗する力は凄まじく、肇の貧弱な筋力ではこれ以上の保定は不可能。
ヒトガタは弾かれたように獅堂の脳天へと肉薄し、その鋭い爪を突き立てようとした。
しかし――。
『もう…少し…分析して…や……』
時間切れ。
これまでにも何度かあった、致命的な欠陥。
ヒトガタという個体は、他の傍白に比べて現世に留まる器が圧倒的に不安定なのだ。
ヒトガタの爪は、獅堂の皮膚を裂く直前で形を失い、白い粒子となって大気に溶けて消えた。
「残念だったなぁ……ッ!!」
戦況の暗転を察した獅堂は、醜悪に口角を跳ね上げると、自身の肘を肇の脇腹へと強烈に叩き込んだ。
「ガフッ……!」
内臓を押し潰されるような衝撃に、肇の拘束が解け、地面へと転がされる。
「ハァ…ハァ…よくもやってくれたなぁ、クソガキが……! あぁ、酸素が美味ぇ…頭が冴え渡ってくるぜぇ……!」
貪欲に空気を吸い込む獅堂の肉体に、内側から溢れ出た白い光の粒子が纏わりついていく。
その瞳は生物のそれではなく、白く怪しく発光し、冷徹に肇を見下ろした。
「知ってるか? 転生者ってのはなぁ、肉体に宿した放浪者の魂の力を、己の主魂に直接昇華させることができるんだよ。――こういう風になぁ!!」
獅堂がポケットに手を突っ込んだまま、片足を軽く払う。
それは目視不可能なほどの神速。
直後、肇の左腕から凄まじい破壊音が響いた。
「は……?」
視線を落とすと、そこには皮膚が裂け、白い骨が不自然に飛び出し、見る影もなくひしゃげた自身の左腕があった。
激痛が脳に到達する。
「クッッッ……!!」
絶叫を噛み殺し、血がどくどくと滴る腕を必死に押さえつけながら、肇は荒い呼吸を繰り返す。
(まずい…まずい…!! 早く、もう一度ヒトガタを……!!)
焦燥感とともに、体内から白い粒子を放出しようとする。
だが、それよりも早く、肇の身体は重力を失って宙に浮いた。
「グッお……!?」
遅れて腹部に伝わる激痛。
蹴られたのだ。
先ほどの腕を折られた一撃と同等の質量が、まともに腹に突き刺さっていた。
「させねぇよ、雑魚が。いいか、レクチャーしてやるよ。転生者ってのはなぁ、頭のネジがぶっ飛んでる奴の方が強ぇんだ。最も重要なのは『精神』だ。心が乱れてりゃ力の昇華なんてできねぇし、精神が途絶えてりゃ傍白すら出せねぇ。けどな、最初からイカれてる奴らは、どんな異常事態でも脳のどこかが冴えてんだよ。つまり、痛みごときで精神がブレッブレになってるテメェみたいなグズは、典型的な『雑魚』なんだよぉ!!」
「ッッッッ!!!」
地面にうつ伏せに叩きつけられた肇の右肩を、獅堂の靴底が無慈悲に踏みにじる。
その足にかかる質量は異常だった。
ミシミシと音を立てて、地面と肇の肩甲骨に亀裂が入る。
グズグズと肉が潰れる重みと痛みに、肇はただ歯を食いしばって耐えるしかなかった。
「ほら、さっきみたいに俺の首を絞めてみろよ! 俺の身体を斬り裂いてみろって言んだよ! ほら、ほらぁ!」
獅堂は、勝利を確信していた。
目の前に転がっているのは、ただの格下。
弱者は強者に蹂躙されるのが、この世界の絶対的な真理だ。
しかし、獅堂は致命的な誤解をしていた。
「やるよ……」
「あぁ?」
泥に塗れた肇の口から、掠れた声が漏れ出た。
その頼りない声音と同期するように、ぐちゃぐちゃにひしゃげていた筈の左腕が、骨の軋む音を立てて元の形へと急速に再生していく。
その傷口からは、これまで見たこともない『煤のようにドス黒い粒子』が溢れ出ていた。
(……ッ!? なんだ、コイツ……!?)
肩に置かれた獅堂の足を強引に押し戻し、肇の身体がゆっくりと地面から浮き上がる。
ヒビ割れた大地を掴む両手は、どす黒く、そして獣のように鋭く変貌を遂げていた。貧弱な少年のものとは思えない、万力のような圧力がそこから放たれている。
「そこまで言うなら…やってやるよ……!」
獅堂を睨み上げる肇の双眸は、光を拒絶する圧倒的な「黒」に支配されていた。
結膜には、まるで磁器のひび割れのような黒い筋が何本も走り、腕と同じように黒い粒子が漏れ出ていた。
次の瞬間、獅堂の視界は、木々に囲まれた薄暗い森ではなく、抜けるような青空へと強制的に切り替わった。
「は?」
脳の処理が追いつかない。
何が起きたのかすら認識できなかった。
ただ、彼の本能だけが、目の前の存在に対する唯一のアンサーを導き出していた。
狩る側と狩られる側の立場が、完全に逆転したという残酷な事実。
刹那、目の前に黒い瞳を持った肇が現れる。
「知性的でも、理性的でもねぇ……だが、人間として、生物として、本能で動いてるんだ……」
そして、己がただの無力な餌に成り下がったという絶望だった。
「合理的ではあるだろ…?」
黒い粒子を纏った肇の拳が、一撃で獅堂の顎骨を粉砕する。
獅堂の巨体は物凄い質量兵器となって地面へと叩きつけられ、周囲の木々をドミノのように薙ぎ倒しながら、土煙を上げて地面を深く削り取っていった。
「フゥ……」
完全に意識を失い、ピクリとも動かない獅堂を見下ろしながら、肇は口の端から黒い煤のような粒子を吐き出す。
完全にトドメを刺す――そう思考をシフトした瞬間、世界が明確な敵意を持って肇を拒絶した。
「ッ!!」
大地が、樹木が、生い茂る葉が、まるでそれ自体が意志を持つ巨大な腕のようにうねり、肇の四肢へ絡みついてくる。
動きを完全に封じられた直後、それらの植物は鋼鉄以上の硬度へと変質し、彼を完全に縫い付けた。
「んだこれ……!?」
肇が力任せに暴れた瞬間、気絶した獅堂の傍らに、全身を純白に包まれた異形の傍白と、片目を前髪で隠した一人の男が静かに佇んでいた。――九条だ。
「なかなかに面白いものを見せていただき誠にありがとうございます。ですが、誤解なさらないでくださいね?今回は御無礼を承知で、貴方様の力を引き出しましたが、我々は常に貴方様の味方…今後貴方様に危害が及ぶようなことはございません。ですので、その力をいずれ我らと共に…おっと。もう来てしまいましたか。では、我らはここら辺で。また会いましょう…我が『王』よ……」
九条は低く、どこか艶を帯びた声でそう言い残すと、闇のように深い黒い瞳を細め、獅堂の身体を軽々と抱きかかえて、煙のようにその姿を消し去った。
「クッソが……!」
標的を失ったことで、肇の身体から溢れていた黒い粒子は急速に収束し、瞳のひび割れも引いていく。
残されたのは、ただの貧弱な少年である肇の姿だけだった。
「な、なぁんじゃあああぁぁこりゃああぁぁ!!!!」
静寂を取り戻した森に、突如として耳を劈くような絶叫が響き渡る。
「道が! 森が! ボロボロじゃああぁぁ!!! それになぁんじゃあこりゃあ!! あのデッカい……んん? カイィィィ!!!?!?」
魁のあまりにも騒がしい声を聞きながら、肇はこれから始まるであろう面倒な説明の数々を予感し、深く、重いため息を吐いた。
そして何より体に流れる筋肉痛Lv100のような痛みに真顔で耐えていた。




