第七話:同種
「……魁が家を出てから、3122秒。そろそろ、いい頃合いかな」
僕は独り、魁の家の畳に座り、脳内の秒針を止めた。
時間にすれば約五十二分。
あの野性味溢れる魁の脚力なら、もう十分な距離まで離れているはずだ。彼は今頃、晩飯の獲物を求めて猟銃と共に山中を駆け回っているだろう。
「よし。まずはあの診療所からだ」
彼が戻るまでの数時間は、僕に与えられた唯一の自由時間だ。
この村に隠された真実、そして僕自身の中に眠る「無から有を創り出す」あの不可解な力の正体を探るべく、僕は静かに外へと踏み出した。
真っ先に向かったのは、以前から異様な気配を放っていた相川診療所だ。
入り口から中を覗き込むが、真昼だというのに内部は濃厚な闇に沈んでいる。
窓という窓が板で塞がれ、まるで外部の光を拒絶しているかのようだ。
「ハァ……。仕方ない、目が慣れるまで我慢するか」
あの力を使えば懐中電灯くらいは出せるだろう。
だが、物質の具現化は驚くほど体力を削り、全身に鉛を流し込まれたような倦怠感に襲われる。
正体不明の「リソース」は、ここぞという時のために温存すべきだ。
僕は溜息を吐き、埃とカビの匂いが立ち込める闇の中へ足を踏み入れた。
ギィ……ギィ……
歩くたびに腐りかけた床板が悲鳴を上げる。
「……何だ、ただのゴミ捨て場か?」
期待に反して、そこにあるのは廃墟の典型だった。
錆びついた点滴スタンド、中身の干からびた瓶、骸骨のように横たわるベッド。
時折、天井から滴る水滴の音が不気味に響く。
(相川という男が『カガクシャ』だったというなら、こんなガラクタばかりのはずがない)
そう確信しながら廊下の突き当たりまで進んだ時、明らかに周囲とは隔絶された気配を放つ扉が、僕の行く手を阻んだ。
湿気で歪んだ他の扉とは違い、それは重厚な鋼鉄製で、隙間なく枠に収まっている。
シリンダー錠が二つ。
物理的なこじ開けはまず不可能だ。
「隠し事をするなら、ここだと言ってるようなもんだな」
ズズズ……と、僕の身体から白い光の粒子が溢れ出し、冷徹な輪郭を結んでいく。
僕は即座に「ヒトガタ」を呼び出し、その冷たい影に命じた。
「壊せ。中に入りたい」
ヒトガタは一切の躊躇なく、その鉤爪を鋼鉄へ突き立てた。
常人離れした怪力が、強固な防壁を紙細工のように引き千切る。
ガシャァァンッ!!
静寂を切り裂く破壊音と共に、扉だった鉄屑が床に転がった。
「乱暴だな、まったく。もう少しスマートにできないのか」
呆れながらも、僕は剥き出しになった闇の先――相川の「真の実験室」へと足を踏み入れた。
一歩中に入った瞬間、僕の目は驚喜に揺れた。
そこは診療所という皮を被った、本格的な化学研究室だった。
壁際を埋め尽くす精密な蒸留装置や遠心分離機。
そして、遮光瓶に収められた膨大な数の薬品。
「硝酸に過酸化水素……。ヘキサメチレンテトラミンまであるのか……?」
これだけの材料があれば、僕の知見を組み合わせることで、ただの硫酸などより遥かに殺傷能力の高い代物が作れる。
テルミット反応による超高熱剤、あるいは即席の爆薬。
逃走用の煙幕だって思いのままだ。
「……最高だ。これなら、あの化け物ども相手にだって、ただ逃げ回る以上のことができる」
少しばかりの興奮を抑えきれず、僕は薬品のラベルを一つひとつ確認し始めた。
指先が微かに震える。
暗闇の中、僕は久しぶりに自分だけの「武器」を握りしめたような全能感に陥っていた。
「……なるほど。確かに君の『知見』は、その力に相応しいようだ」
「ッ!!」
背後から突き刺さったのは、冷徹で優雅な、聞き覚えのない声だった。
弾かれたように振り返ると、そこには割れた試験管を指先で弄ぶ、片目を髪で隠した長身の男が立っていた。
(誰だ……? 警察か、それともこの村の人間か……。だが魁はもう誰もいないと言っていた。いや、そもそも魁の話自体が嘘だった可能性も……!)
思考が混濁する僕の前に、入り口からもう一人の男が現れる。
茶髪で、どこかチャラついた雰囲気の男。
「いやぁ、やっぱダメだわ。人っ子一人居やしねぇ。せっかく魂ぶち込んでやろうと思ったのによぉ」
男は鋭い八重歯を剥き出しにして悪態をつきながら、片目の男の隣へ歩み寄る。
そして、僕の存在に気づくなり、獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべた。
「お、なぁんだ。居るじゃねぇか! やっぱテメェの勘は当たるもんなんだな、九条!」
男は自身の親指の関節部分を前歯で噛み、血を流す。そして、その体からどろりとした光の粒子を溢れ出させた。
(ッ!! こいつ、僕と同じ……!)
光は瞬時に収束し、洗練された赤いコートとシルクハットを纏ったドクロの傍白を形作る。
ドクロの眼球が僕を捉え、その手には巨大な斧が二本、鈍い光を放っていた。
『俺を出したってことはよぉ……変えちまって良いんだよなぁ? コイツもよぉ……!』
傍白が斧を振りかざし、僕へ飛びかかろうとした、その瞬間。
『――少し、静かにしていなさい』
謎の声と共に、赤いシルクハットを被った傍白の下半身が、まるで泥沼に沈むように地面へ埋まった。
『あぁ!? なんだァこれ!?』
焦るシルクハットの背後、闇の中からもう一体の「影」が立ち上がっていた。
異常なほど長身で細身。
顔のないのっぺらぼうの頭部に、純白のスーツを纏ったその姿。
捉えどころのない、底冷えするような恐怖が室内に満ちる。
「失礼、私の付き人が粗相を。あとでしっかりと言い聞かせておきます」
純白のスーツを従え、片目を隠した男がゆっくりと歩み出てくる。
「テメェら……何者だ……?」
絞り出すような僕の問いに、片目隠しは隠されていない方の目を細め、優雅に微笑んだ。
「そうでしたね、自己紹介がまだでした。私は九条蓮。こちらは獅堂刹那。お察しの通り、我々はあなたと同じ――――」
九条は確信に満ちた声で、その言葉を告げた。
「『転生者』……です」




