第六話:変な奴ら
「ハァ……ハァ……どこまで、続くんだよ、これ……」
魁の後ろを歩き始めて一時間以上が経過した。
極限状態の空腹と疲労で、視界の端がチカチカと明滅している。
こんなボロボロの人間を延々と歩かせるなんて、こいつの神経はどうなっているんだ。
「ったくよぉ、いつまでもブツブツ言っとると、本当に舌引っこ抜いちまうぞ? もうすぐ着くんだから我慢せい! 男じゃろがい」
「……この、時代に……その、発言は……どうかと、思うぞッ」
当の本人は、息一つ切らさず軽快な足取りで坂を登っていく。
底なしのスタミナだ。
「ほれ、着いたけんね。見ぃ」
「……え?」
長い、あまりに長い獣道の坂を登り切った先。
視界が開けた瞬間に目に飛び込んできたのは、深い緑に抱かれた小さな集落だった。
テレビの秘境特集で取り上げられてもおかしくないほど、そこには静謐で、どこか浮世離れした風情が漂っている。
僕は無意識に、視界に入る家の数を数えていた。
「……十八、十九、二十。結構な数だな。昔は何人くらい住んでたんだ?」
「四十人ちょっとだの。今はもう、皆出てっちまったけどな」
魁はそう短く言うと、少しだけ舗装された下り坂を迷いなく進んでいく。
僕はその背中を追いながら、並び立つ家々を観察した。
その中で、明らかに異彩を放つ建物が一つ。
「あの家は何だ? 一つだけ、異常にデカくないか?」
「ああ、あれは相川さんとこの病院だでな。村で唯一の診療所だったんだ。相川さんは医者ってよりも、カイみたいな『カガクシャ』寄りな人じゃったんじゃ。だいぶ前に病気で亡くなっちまってよ…急にじゃったからびっくりだわ。中には人体模型やら薬品やらが残ってて、おっかねぇ場所だぞ」
「別に僕は科学者じゃないが……」
だが、その場所は僕の興味を強く惹いた。
薬品の備蓄。もし僕の知識で扱える機材や薬が残っていれば、今後の備えになるかもしれない。
集落の奥、ひときわ手入れの行き届いた一軒家の前で、魁が足を止めた。
「ここが儂の家じゃ! ちとボロいが、崩れたりはしねぇから安心しろ! ほんなら飯用意すっから、適当に座って待ってろ!」
魁は一言そう言い残すと、家中へ駆け込み、台所でガタガタと音を立て始めた。
僕は泥のついた靴を脱ぎ、警戒を解かずに畳の部屋へと上がる。
ふと、襖の上に掲げられた古い写真に目が留まった。
写っているのは、魁とどこか似た面影を持つ老人。
だが、その雰囲気はあまりに鋭い。
目元には深い切り傷があり、口元には無理やり縫い合わせたようなツギハギの痕。
穏やかな隠居老人とは程遠い、歴戦の猛者の風格がそこにはあった。
「……これが、お前の爺さんか?」
僕は台所に声をかけた。
芳ばしい、何かが焼ける匂いが漂ってくる。
「そこの写真か? そうだぞぉ、おっかねぇ顔してんだろ」
「……少し、どころじゃないな」
マタギとヤクザを足したような顔をしている。
「そういや、ここって学校とか無いよな。勉強とかどうしてんだ?」
「村に若ぇ奴は儂しか居なかったからのぉ。学校とかは行ったことなかったな。読み書きは爺ちゃんから教わったんだ。のせいで、口調が爺ちゃんに寄っちまってよ」
トントントン、と軽快な包丁の音が響く。
空腹を容赦なく刺激する、味噌の焼ける香りと出汁の匂い。
「ほーれ、出来たでな! 遠慮せんと食いね!」
お盆を抱えた魁が、畳の上にどっかと座る。
運ばれてきたのは、玄米混じりの山盛りご飯に、小松菜と根菜がたっぷり入った味噌汁。
それに、満月のように美しい黄金色の卵焼きと、瑞々しい漬物の小皿。
「…………っ」
僕は喉を鳴らした。
震える手で箸を取り、掌を合わせる。
「……い、いただき……ます」
湯気の立つ椀を手に取り、一口すする。
「ッ!! ……っ、美味ぇ……」
思わず、目頭が熱くなった。
一口飲んだのを合図に、僕は夢中で米を口に運んだ。卵焼きの絶妙な甘み、漬物の塩気、味噌汁の温かさ。そのすべてが、凍りついていた僕の五臓六腑を溶かしていく。
「へへ、そんな急がんでも……と言いてぇところだが、儂もきっとそうするからの。たらふく食いね。おかわりもあるけんな」
魁は白い歯を見せて、満足そうに笑った。
「すまんのぉ、肉か魚も出したかったんだが、今ちょうど切らしててよ。後で獲ってくるから、晩飯まで我慢しちょくれ」
「……ごくん。いや、十分だ。……不器用そうだと思ったけど、意外と料理上手いんだな」
「意外とは失礼な! 儂ぁ爺ちゃんに『飯将軍』って呼ばれるくらいなんだぞ? ……まぁ、爺ちゃんがいない間、ずっと一人で練習してたからなぁ」
「……皆村を出たって言ってたけど、お前は町に行こうとは思わないのか?」
「儂、都会の空気はあんま好きじゃなくてよ。自然は少ねぇし、人は冷たい気がするし……。でも、カイは良い奴じゃけん。カイみたいな奴で町が溢れてたら、行っても良いかもの!」
「僕が良い奴……? 何言ってんだ。僕なんか……」
親友を助けてやることも出来ず、逃げてきただけの臆病者だ。
「そんな卑下すんな! 儂ぁ確かに不器用だけんど、人を見る目だけは誰にも負けねぇよ!」
魁は大声で笑いながら、僕の肩をバシバシと叩いた。重い。
だが、その屈託のない笑顔を見つめているうちに、僕は自分の中にある変化に気づいた。
(……あ。僕、この飯に毒が入ってないか、確認するのを忘れてた)
無意識のうちに、箸が進んでいた。
空腹のせいもある。
だが、一番の理由は――
(こいつを見てると……冷のことを、思い出してしょうがないんだな……)
滲み出るような、圧倒的な善性。
自分の損得など一切考えず、目の前の他者のために全力で尽くす、超がつくほどの馬鹿。
それが、僕が築き上げていた警戒の壁を、いとも簡単にぶち壊してしまった。
僕は最後の漬物をポリリと噛み砕き、深く息を吐き出した。
◇
場面は変わり、優と冷が襲撃を受けた公園を見下ろす、駅前の高層ビル。
その吹きさらしの屋上に、二人の男が立っていた。
一人は公園を睨みつけ、もう一人は退屈そうに虚空を眺めている。
「なぁ、もう行かねぇか? 俺の眼には、もう何も映らねぇんだけどよ」
屋上のフェンスに寄りかかった、八重歯の鋭い男が言った。
手の中にある空き缶を、苛立たしげに弄んでいる。
「うーん、そうだね。ここにはもう、用はなくなったかな」
「はぁ? わざわざこんなとこまで出向かせておいて、スカかよ。ふざけんなよ」
八重歯の男は毒づき、空き缶を隣の男へと乱暴に投げつけた。
「そう怒らないで。……ただ、少しだけ予定外の出来事が起きたみたいだよ」
投げられた空き缶は、隣に立つ片目を髪で隠した男の直前で、何かに衝突したように静止した。
男が人差し指を優雅にくるりと回すと、空き缶が赤色を超え、白熱して発光し始める。
一瞬にして数千度の高熱に達したアルミは、ドロドロの液体へと成り果て、火花を散らしながら屋上のコンクリートを焼いた。
「どうやらあの子……少し遠いところへ行ってしまったようだね」
男は、優たちが消えた山の向こうを、薄笑いを浮かべて見つめていた。




