第四話:知
落下して、そのまま何もできずに――死ぬ。
そう確信した瞬間だった。
「……あれ?」
アスファルトなら即死、土でも重傷は免れない高さだった。
しかし、僕の体を迎えたのは冷たい地面ではなく、不自然なほど深く、柔らかな感触だった。
「クッション……?」
泥まみれの森の中に、場違いなほど真っ青なクッションが鎮座していた。
混乱しながらも、僕はその正体を探るべく縁に触れる。
「ただの綿…だな。けど、どこから……ん? なんだこれ」
裏側に手を回した時、掌に奇妙な違和感を覚えた。
引き抜いて見てみると、そこにはクッションから僕の掌へと繋がる、白く発光する「紐」のようなものが伸びていた。
それは、あの白いヒトガタが顕現する際に放つ光の粒子と、全く同じ輝きを放っている。
(僕が、これを出したのか……?)
現実離れした出来事の連続に、脳の処理が追いつかない。
試しにその光る紐を引きちぎってみると、紐は生き物のようにシュルシュルと掌の中へ吸い込まれていった。
(ヒトガタが出したのか、それとも僕自身が…?噂に聞いていた力の昇華は本当だったんだな…)
僕は再び掌を広げ、落下の恐怖を意識の底から引きずり出す。
すると、手のひらを熱い電流が走り、先ほどより一回り小さな青いクッションがボフッ、と掌から現れた。
「っしゃ……! 使える……か、どうかは分かんねぇけど、生存確率は上がったな」
だが、代償は安くなかった。
成功の喜びを上書きするように、泥のような倦怠感が全身を襲う。
先ほどまでの空腹と渇きが、数倍に膨れ上がって胃を締め付けた。
自分の命を削って物質を生成しているような、厭な感覚だ。
「……水だ。まずは、水場を探さないと……」
僕は幽霊のような足取りで、湿った土を蹴りながら森の奥へと這いずった。
幸いにも、水の音はすぐに見つかった。
「……ツイてるな。下流の淀みだったら、詰んでた」
激しく飛沫を上げる川。
本来なら手で掬ってがぶ飲みしたいところだが、僕は理性の最後の一片を振り絞る。
野生の生水には寄生虫――ジアルジアやクリプトスポリジウムのリスクが付き物だ。
ここで腹を壊せば、指名手配犯として捕まる前に野垂れ死ぬ。
「クッションが出せたんだ。火を起こす道具くらい……っ、よし。出ろ……!」
掌を広げ、意識を集中させる。
火を熾すためのファイヤースターター、そして水を煮るための小さな片手鍋。
それらが具現化した瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
「ハァ、ハァ……ダメだ。もう、限界……」
たった二つの道具を出しただけで、魂を削り取られたような脱力感に襲われる。
喉はベタつくほど渇き、唾液すら出ない。
僕は地面に力なく倒れ込み、最後の力を振り絞って白い粒子とともに「それ」を呼び出した。
『喉…乾い…た……』
「それは、こっちのセリフだ……。いいか、遠くまで行って、乾いた枝と……在ればでいい。ススキとかの燃えやすいもんを、持ってきてくれ。火を、着ける……」
『疲れ…た……』
ヒトガタはノイズ塗れの愚痴を漏らしながらも、重力を無視した速度で森の闇へと消えていった。
(ったく、さっきは勝手に消えたくせに……)
仰向けに寝転び、犬歯で舌を噛んで無理やり唾液を出す。
その時だった。
すぐ近くの藪が、ガサリと不自然に揺れた。
(……戻ってきた? いや、早すぎる)
嫌な予感がして首を巡らせると、そこにはヒトガタではなく、「人間」が立っていた。
木に片手を預け、こちらを興味深げに見下ろしている。
唐傘帽子を深く被り、野性味溢れる格好をした、僕と同世代か少し年上に見える男。
「あ、あんた……大丈夫け? なんか、ボロボロだなぁ」
「ッ!!」
心臓が跳ねた。
咄嗟に身を起こそうとするが、極限状態の体は思うように動かない。
「ヤベッ……!」
勢い余って濡れた岩場に足を滑らせ、体ごと濁流の方へ傾く。
この速い流れに落ちれば、今の体力では一秒も持たずに飲み込まれる。
死を覚悟し、目を細めた瞬間。
目の前の男が、自らの親指を迷いなく噛み切った。
鮮血が滴り、その体からあの不吉で美しい「白い光の粒子」が溢れ出す。
「ッ……! この光、まさか……!」
粒子は瞬時に形を成し、僕の腕をガシッと掴んだ。
それは、肘から先だけの褐色の腕だった。
土器のように乾いた感触。
浮遊するその腕は、凄まじい筋力で僕を濁流から引き揚げた。
「ったくよぉ! 危ねぇだろうが! ここら辺は流れが速ぇんだぞ! 気をつけんかい!」
男が屈託のない声で叫ぶ。
同時に、浮遊する褐色の腕は、僕を安全な地面まで力強く運び上げた。
「ったくよぉ…これだから都会のモンは……。ん? でもなんで都会のモンがこんな山ん中に居るんや?」
「お前…それ……」
僕は、男の周りをフワフワと回る「腕」を指差した。間違いなく、あのヒトガタと同じ性質のエネルギーだ。
「ん? ああ、これか。そうだの、都会じゃ滅多に見ねぇもんなぁ。いや、都会とか田舎とか関係ねぇか?」
「いや、違う。僕は…それを――」
その瞬間、森の奥から乾いた枝を山ほど抱えた「白い影」が、弾丸のような速度で僕の隣に着地した。
対峙する、白と褐色の異能。
僕は喉の渇きも忘れ、目の前の男を睨みつけて告げた。
「――知っている」




