第二十話:慧
肇はその場からの逃走を選んだ。
だが、それはただの逃げではない。状況を打開するための、冷徹で戦略的な「撤退」だ。
いまだ立ち込める砂煙を遮蔽物にし、ヒトガタが弾き飛ばされた方角へと全力で地を蹴る。
(絶対にあいつ、何かやってる……! 僕みたいな非力な奴が、策もなしに突っ込んでいい化け物じゃない……!ていうか僕逃げてばっかだなクソが!)
背後を何度も確認しながら走る。
魁とのサバイバル生活である程度は体力がついたとはいえ、本質は引きこもり上がりの頭脳労働者だ。
肺はすぐに焼けつくように熱くなり、足取りが目に見えて重くなる。
「ハァ…ハァ…ッ! 毎日…走っておけば、よかった……!」
ただでさえ今まで、足はヒトガタに頼ってきていたんだ。
そりゃ走れなくて当然だ。
砂煙が薄れ始め、視界が晴れていく。
完全に露呈する前にこの場を離脱しなければならない。
しかし、その女にとって「目視」など、捕獲の絶対条件ではなかった。
「ガッ……!?」
不意に、右腕に強烈な違和感が走る。
何かに掴まれた――そんな生易しい感覚ではない。
ベキィッ!
「ぐぁあああああ!!」
肘から下を「不可視の何か」に完全に包囲され、凄まじい力で圧縮される。
骨がひしゃげ、肉が潰れる不気味な音が脳内に直接響いた。
(何だ…これ……! 何も無いのに、完全に固定されてる……!?)
「動くともっと痛くなりますよ犯罪者さん……」
数メートル先で立ち止まっている女。
触れられてすらいないのに、優はその場に釘付けにされた。
その眼光は、捕食者のそれだ。
だが、肇の「合理的思考」は絶望に屈しなかった。
「これが一番…合理的だッ……!!」
肇は先程生成した短剣を握りしめる。
それを震える左手で掴むと、肇は迷わず自らの右腕に振り下ろした。
「ッ!?」
その凄惨な光景に、無表情だった女が初めて驚愕に目を見開く。
(腕を、自ら切り落とした……?)
状況が理解できず、一瞬だけ彼女の思考が止まる。
「いってぇな、クソが!!」
肇は止まったままの女に向け、血塗れの短剣を投げつける。
女はその短剣を軽々と避けるが、次に視線を戻した時には肇の姿は消えていた。
「行っちゃった……。にしても、腕を切るなんて…最近の犯罪者は、随分と気合が入ってるんですね……」
女は淡々とした調子で、肇の血痕を追い始めた。
一方その頃、肇は血が滴らないように傷口を無理やり塞ぎ、再生させていた。
「あぁ、やっぱり腕を切るのは痛いな……。再生も体力を食いすぎる。やんなきゃ良かったか……?」
ドクドクと脈打つ新しい右腕の感覚を確かめながら、肇はヒトガタの元に辿り着く。
しかし、そこで待っていたのは最悪の光景だった。
地面に叩きつけられ、黒銀の騎士に胴体を押さえつけられたヒトガタの無惨な姿。
『……やっぱ、信用しなけりゃ…良かったな……』
ヒトガタは虚脱したように呟きながらも騎士の足を掴もうとするが、騎士はその頭を無慈悲に踏み潰した。
ヒトガタの姿が白い光の粒子となって霧散する。
(ッ……! ヒトガタが負けた……!? 膂力には自信があったはずなのに……!)
肇の気配に気づき、騎士がゆっくりとその重厚な体を向けた。
『貴殿の傍白は消えた。再召喚には時を要するはずだ……。大人しく縄につけ』
「そうですよ。詰みです…」
追いついてきた黒髪の女が横に並ぶ。
前後を塞がれ、肇は絶体絶命の境地に立たされた。
「ああ、もう…ホント………最悪だよ!!!」
肇は全身から絞り出すように白い光の粒子を放出した。粒子は猛烈な勢いで再構成され、消失したはずのヒトガタが再び現界する。
『ぶっ殺してやる……!』
再召喚のインターバルを無視した暴挙。
ヒトガタは殺意を剥き出しにし、鋭い爪を伸ばして騎士へと突っ込む。
『なっ……!? この短時間で再び……!?』
応戦しようと剣を抜く騎士だったが、ヒトガタの速度がその反応を凌駕した。
金属の擦れる嫌な音と共に、騎士の腕に深い傷が刻まれる。
「ルドウィーク!」
女が叫ぶ。
だが、その隙を肇は逃さない。
「テメェの相手は僕だ。ダボが!!」
肇は物凄い形相で女へと駆ける。
(普通のナイフじゃ殺傷能力が足りない……。もっと、殺すためのイメージを……貫通と、出血に特化させろ……!)
生成されたのは、釘のような細さとドリルのような螺旋構造を持つ、異形の螺旋針。
肇はその針を、女の脇腹へと突き立てるべく振り下ろした。
「ッ!!」
女は紙一重で身をよじる。
(あの形状…刺さったらただでは済まない)
しかし、避けたはずの彼女の脚に、鋭い痛みが走った。
「これは……!」
「バカが。何の対策もなしにここに来るわけないだろ!」
女が確認すると、太腿から血が滴っていた。
肇が仕掛けていたのは、靴の先端から発射される隠し針。
「体内に入った針を抜くのは大変だぞ。……抜かなければ、どうなると思う?」
女の足が、意思に反してピクピクと小刻みに震え始める。
そして、石のように硬直した。
「なに…これ……」
「サクシニルコリン。僕お手製の、神経筋接合部を直接叩く強化版だ」
肇は針の発射機構を仕込んだ靴を見せ、冷酷に笑う。
「さぁ、あっちの騎士はヒトガタに任せて、僕はお前を遠くからチマチマと――」
言いかけた瞬間、肇の視界は地面へと叩きつけられた。
「ガッ……!?」
体が重い。
いや、「重い」なんてレベルではない。
まるで大型トラックに全身をプレスされているような圧力。
地面にくい込んだ肇の周囲には、巨大な「手の形」のクレーターが刻まれていた。
「……確かに、今の私は動けない。でも、共有したルドウィークの能力は、この距離なら容易に届く……」
「グッ……ガ、アァ……!」
肺が圧迫され、酸素を取り込めない。
透明な手に、文字通り押し潰されようとしている。
「このまま、意識が落ちるまで圧力を強める……」
骨がミシミシと悲鳴を上げ、視界が赤く染まる。
敗北の色が濃厚になり、意識が遠のきかけたその時――かつての親友、冷の顔が脳裏をよぎった。
「クソがあぁ……!!」
死ねるか。
こんなところで。
全身の力を振り絞り、這いつくばった状態から腕を立てようとする。
その瞬間、肇の身体から、白い粒子とは質の異なる『黒い煤のような粒子』が溢れ出した。
あの時と同じ、黒い粒子が。
しかし本能的な殺意に支配された肇は、その異変に気づかない。
「ぶっ殺して――」
肇が怨念を込めて体を起こそうとした瞬間、空間に鋭い声が響いた。
「そこまでだ!!」
騎士を力づくで抑え込む狼。
騎士の隙を突いて銃弾を浴びせるカウボーイハット。
そして、女の背後をバイク型の傍白が包囲する。
「まったく…凄まじい音がしたと思ったら壁に大穴が空いていて…挙句、客人がウチの社長と戦ってる。胃が死ぬぞ……」
現れたのは、轟をはじめとする「拝み屋」のメンバーたちだった。
轟は呆れ果てたようにため息をつき、その謎の女――社長に向かって告げた。
「慧…いい加減、そいつを離してやってくれ。そいつは敵じゃない」




