第二話:ヒトガタ
亀野郎が光の粒子となって霧散し、異様な静寂が廃ビルの中を支配した。
残されたのは、血の海に沈む僕と冷。そして、天を仰いだまま彫像のように固まった、あの白いヒトガタだ。
(なんだ……こいつ。戦いが終わったのに、消えもしないし動きもしない)
目前の白いヒトガタはフラフラと掴みどころのない動きでその場に静止しており、僕や冷に対する敵意は一切感じられなかった。
(敵意がないなら、今のうちに……!)
僕は即座に冷の巨体を抱え直し、不気味なヒトガタから距離を取るようにその場を離れた。
月明かりの下、まずは冷の体にこれ以上の傷がないかを確認する。
(ガラスの破片は当たったみたいだが、目立った外傷は増えてないな……。よし、あいつがフリーズしている今のうちに、ここを脱出しないと……!!)
再び冷を抱え上げ、出口へ向かって歩き出そうとした、その時だった。
『助け…る……』
突如、僕のすぐ背後から、ノイズの混じった声が鼓膜を打った。
心臓が跳ね上がり振り返ると、さっきまで微動だにしなかったはずの白いヒトガタが、僕に向かってしなやかな「手」を音もなく伸ばしていた。
「な、何を……っ!!」
咄嗟に、拾い上げたあのナイフで迎え撃とうとしたが、肉体が反応すらできなかった。
視界が瞬時に真っ白に染まり、冷たい、けれどどこか優しい不思議な感触が僕の顔面全体を包み込む。
――殺される。
そう直感した次の瞬間、体中を熱い電流のような未知の感覚が駆け抜けた。
「…っ! これは……!?」
やがて白い手が顔から離れた時、信じられない光景が目に飛び込んできた。
どくどくと血を流していたはずの、左肩の深い抉り傷が、まるで映像を逆再生するように急速に塞がっていく。
衣服の破れはそのままだが、肌だけが何事もなかったかのように滑らかな、元通りの状態に再生していた。
『助……ける……?』
白いヒトガタは僕の傷を癒すと、どこか満足したかのようにフラフラとその場で揺らぎ始めた。
捉えようのない、まるで陽炎のような不安定な立ち姿だ。
「傷が、完全に治ってる……?」
慌てて全身を確認するが、激痛すらも綺麗さっぱり消え去っている。
(これなら、冷も……!)
「お、おい! 冷も…こいつも、治してくれ!! 今僕にやったみたいに、頼むから――!!」
必死に訴えかけた、まさにその瞬間。
白い影の輪郭が急激に薄れ、あの亀野郎と同じように、その肉体から光の粒子が激しく溢れ出した。
「あ、ま……待ってくれ!!」
消えゆくヒトガタに向かって思わず手を伸ばす。
すると、その白い影は最期に一歩だけこちらへ踏み込み、まるで僕を慈しむように、その細い腕で僕の体を優しく包み込んだ。
「……へ?」
『―――――』
最後に、耳元で何かを囁かれたような気がした。
だが、僕の鼓膜に届いたのは、意味を成さない悲しいノイズだけ。
白い影はそのまま僕の胸の奥へと吸い込まれるようにして、完全に消滅した。
「クッソ……なんなんだよ、あいつは一体……!!」
僕なんかを治したって、何の意味もない。
本当に治すべきなのは、今も床で血を流している冷の方なのに。
(いや……四の五の言ってたって、状況が変わるわけじゃない。切り替えろ)
僕は万全な状態に戻った五体を無理やり動かし、冷を助けることだけに意識を集中させる。
口にサバイバルナイフをしっかりと咥え、両手で冷の重い体を背負い直して、一歩一歩階段を下り始めた。
背中から冷の微弱な脈動が伝わってくる。
その傷口からは、まだ少しずつ血が溢れ、床に点々と垂れていた。
(死なせるもんか……! 絶対に、僕が助ける……!)
しかし、孤独な決意を固めた僕の耳に、ある「音」が冷酷に滑り込んできた。
遠くから、こちらへ急速に近づいてくるサイレンの音。
一つだけじゃない。
二つ、あるいは三つ以上はある。
(警察か……。助かった…のか?)
一瞬の安堵。
しかし同時に、張り詰めていた糸が切れたように、疲労がドッと押し寄せて足取りがフラつく。
やがてビルの外にパトカーが急停車する音が響き、慌ただしい足音が廃ビルの敷地内へと侵入してきた。
「転生者の目撃情報もある! 各員、警戒して当たれ!」
「了解!」
ビルの外からは、少なくとも十人以上の足音と緊迫した声。
だが次の瞬間、不自然なほどピタリとその足音が途絶えた。
(なんだ……? 何が起こって――)
僕がその違和感に困惑したのも束の間、物凄い勢いで、重装備に身を包んだ警察官たちが一斉にビル内へ突入してきた。
「ターゲット確認!! 両手を頭の後ろに上げ、即座に地面に伏せろ!!!」
容赦のない怒号。
警察たちは、まるで凶悪なテロリストを制圧するかのような、明確な敵意を持って僕に一斉に銃口を向けた。
階段の途中にいた僕は、冷を背負ったまま身動きが取れず、慌てて口に咥えていたナイフを床に吐き出し、声を荒らげる。
「ま、待ってください…! こいつが酷い怪我を…!」
だが、僕が口を開いた瞬間、警察たちの鋭い視線は床に落ちた血の付着したナイフへと注がれた。
「――ッ、ナイフだ! 他にも凶器を隠し持っている可能性がある! 警戒しろ!」
血のついた刃物、腹部を裂かれて意識不明の重傷者、そして、全身黒い服に包まれた人相の悪い僕。
ここにはもう、あの亀の化け物の死体すら残っていない。
この最悪な状況を俯瞰すれば、答えは一つしかない。僕がこんな人気のない廃ビルに親友を連れ込み、刃物で滅多刺しにした猟奇殺人犯だ。
「待ってください! 僕は被害者だ! こいつが、冷が死にそうなんだ! こいつだけでも早くーー!」
僕が必死に叫んだ、その瞬間だった。
最前線にいた警察官のひとりが、僕に向けて一切の躊躇なく引き金を引いた。
「――は?」
激しい銃声。弾丸が僕の左腕を掠め、背後のコンクリート壁に火花を散らして埋まる。
発砲した警察官は、怒りと恐怖で涙を流しながら、物凄い形相で僕を睨みつけていた。
「お前の…お前みたいなクソ野郎のせいで……麻里奈は……っ!!」
過去に何か事件でもあったのだろう。
その男の瞳には、法による執行ではなく、私怨による純粋な「殺意」がギラギラと煮え滾っていた。
――――ドクン!!
その瞬間。
僕の心臓が、肋骨を突き破らんばかりの強烈な鼓動を打った。
「なっ……!? これは、魔力……!?」
警察官たちが、暗闇に散乱した美しい粒子を見て驚愕に目を見開く。
僕の周囲の空間に、無数の白い光の粒子が爆発的に発生する。
いや、違う。
それは―――
「僕から…出てる……?」
その白い粒子は、間違いなく僕の肉体から滲み出ていた。
『あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!!!!!』
鼓膜を抉るような咆哮。
「傍白確認!! 形状は人型、能力は未知数!! 警戒して当たれ!!!」
再顕現した白いヒトガタの圧倒的な威圧感に、その場の空気は極限まで張り詰めた。
ヒトガタは出現すると同時に、ダラりと腕の力を抜くような脱力した動作を見せ、警察たちを睨みつけるように、顔の中央に開いた不気味な黒い穴を向けた。
「やはり、転生者は貴様だったか……!!」
警察たちの僕を見る目が、「容疑者への警戒」から「化け物への完全な殺意」へと変動した。
その瞬間、ヒトガタは目にも留まらぬ速度で警察の目の前へと着地し、その指先から、鋭利な爪を音速で突き出した。
「バカ! やめろ――っ!!」
僕の制止は遅すぎた。
その鋭い爪は最前線の警察官の肉体を容赦なく引き裂き、そのまま背後の壁へと激しく叩きつけた。
鮮血が舞う。
だが、幸いにも致命傷ではない。
警察官の防弾ベストが、ヒトガタの斬撃の威力を間一髪で緩和したのだ。
叩きつけられた男は、火花を散らすように気絶し、その場に崩れ落ちて動かなくなった。
「う、うおおおおおぉっ!!」
残された警察官たちがパニックを怒りに変え、ヒトガタに向けて一斉に銃弾の雨を降らせる。
しかし、ヒトガタはまるで身体に虫でも止まったかのように微動だにせず、火花を散らしながら、発砲した警察官たちを冷酷に、機械的に薙ぎ倒していった。
『喰うん…だったら……先に、僕を…食えよ……』
ヒトガタは、僕がさっきあの亀野郎に放った言葉をそのまま模倣するように、ボソボソと呪いのように呟きながら、その場にいた武装警官のほとんどを瞬時に無力化してしまった。
残されたわずか数人の警察官が、震える手でなおも銃口を向けようとする。
「主魂を…落とせ……! 意識を断てば、その傍白は消える……ッ!!」
床に倒れた警察官のひとりが、血を吐きながら声を振り絞って叫んだ。
それを聞いた残りの警官たちが、銃口をヒトガタではなく、背後にいる「僕」へと一斉に転換する。
(マジか…!? クソッ……!)
僕は冷の体に弾が当たらないよう、彼の身体を自分の後ろへと必死に引きずり隠す。
「クソがあああ!!」
警察官が狂ったように叫びながら、僕の脳天に向けて引き金を引いた。
しかし、その銃弾が僕に届くよりも早く、一筋の白い影が割り込む。
「…は? …え?」
ヒトガタは、放たれた弾丸を至近距離で軽々とキャッチしていた。
指を開くと、変形したリード弾がカラリと虚しく地面に落ちる。
何事もなかったかのように、ヒトガタは残った警察官を冷たく睨み据えた。
「た…助け……」
ヒトガタの鋭い爪が、絶望に震える警察官の首元へと伸びる。
あの速度、あの硬度だ。
首に当たれば、確実に即断頭する。
「ああ、もう! クソが!!」
僕は冷の身体をそっと床に横たえると、コンクリートの階段を思い切り蹴飛ばし、ヒトガタの背中に向かって跳躍した。
その白い背中にがっしりとしがみつき、暴れる腕を両手で必死に掴んで、その肉撃を力ずくで阻止する。
「もう十分分かっただろ! お前らじゃ相手にならない! さっさと失せろ、行け!!」
「ひ、ひぃぃ……っ!!」
僕の怒声に弾かれたように、生き残った警察官たちは腰を抜かしながら、這うようにして廃ビルから逃げ出していった。
ヒトガタは僕の制止を無視して、逃げる獲物を追い殺そうと不気味に身をよじる。
(クソが……。早くこんな悪夢終わらせて、家に帰らせてくれよ……!)
心の中で、限界を迎えた愚痴を吐き捨てた、その瞬間だった。
唐突に、ヒトガタの狂暴な動きがピタリと止まった。
(な、なんだ急に……?)
警察への凄まじい殺意が嘘のように消え失せ、その場で静止する。
『帰…る……?』
「え……?」
ヒトガタはノイズ塗れの声でそう漏らすと、虚空を掴むように、片手の指をゆっくりと内側に曲げた。そして、その白い握り拳を、円を描くようにグルリと旋回させる。
それが、この世界を書き換える「合図」だった。
空間が不自然に歪み、視界のすべてが一瞬だけ完全な深淵に包まれる。
「……は? どこだ、ここ……」
次の瞬間、僕の網膜に焼き付いていたはずの警察の赤色灯や廃ビルのコンクリート壁は消滅し、視界は深い圧倒的な闇に塗り潰されていた。
肺に流れ込んできたのは、アスファルトの嫌な熱気ではない。湿り気を帯びた、生命の息吹がする土と木の匂いだ。
「森の中……? さっきまで、あの廃ビルにいたはずだろ……」
『疲れ……た』
超常的な空間転移という神業を成し遂げた直後、ヒトガタの輪郭がまたフラフラと揺らぎ、砂のような光の粒子となって崩壊していく。
「あ、ちょっと待て……!」
僕の制止も虚しく、白い影は今度こそ完全に消失した。
後に残されたのは、僕の激しい呼吸音と、夜の森を支配する圧倒的な静寂だけだ。
「……あぁ、もう。どうなってんだよ、一体全体」
緊張の糸が完全に千切れ、膝の力が抜けて、僕はその場にベッタリとへたり込んだ。
冷の重傷、警察からの理不尽な包囲、そして自分の中に目覚めた謎の化け物。
完全に容量をオーバーした僕の脳が、これ以上の思考を拒絶し始める。
「……めんどくせぇ。寝よ……」
もはや、恐怖や混乱よりも「疲労」が完全に勝利していた。今の僕には、この理不尽極まりない現実と戦う気力なんて、一滴すら残っていなかった。
僕はフラフラとゾンビのように歩き、木々の隙間に見つけた、少し拓けた柔らかい地面に横たわった。
体温を容赦なく奪っていく夜の地面の冷たさすら、今の僕には、脳を麻痺させてくれる極上の麻酔のように心地よかった。




