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第一話:ゼロイチ

「じゃあここからはテスト範囲に関係ないが、最近色々と物騒だから皆も覚えとけよー」


そのゴリラのような野性味溢れる昼行灯に似つかわしくない、社会科という「いかにも」な科目を教えながら、首筋の汗を無造作に拭い取るのは僕のクラスの担任だ。

もう季節は夏だというのに、学校側はまだエアコンを稼働させる気がないらしい。

湿り気を帯びた熱気が、教室の空気を重く沈ませていた。


「まず、初めて発見されたのが十四年前。ちょうどお前らが生まれた頃だな。場所は中国の北部だったか……まぁ、細かい地名はいい」


どうでもよくはないだろう、と心の中で毒づきながら、僕は窓の外に広がる抜けるような青空を眺める。

空を自由に飛びたいな……なんて、手垢のついた妄想が脳裏をよぎる。


「中国の機動隊……PCTだったか、それを単独で制圧して行方不明。今もどこかで生きているという説が濃厚だ。クラスの連中も、夜道には気をつけろよ」


そんな有名人に遭遇する確率なんて、一体何%だというのか。

担任の言葉に、教室内が微かに色めき立つ。

男子たちは「かっけぇ……」「超能力かよ」と、自分たちがその脅威の対象になり得ることも忘れ、子供じみた憧憬を小声で交わし合っていた。


「前提というか一般常識として、コイツらは危険な武器を手にしたテロリストなんかとほぼ同じような存在だからな。見かけても絶対に近づかず、すぐに警察に通報するんだ。じゃあ、続けるぞ」


黒板に走るチョークは、削られるごとに、さらさらと白い粉を落としていく。


「えー、種類は大きく分けて三つ。一つ目が、別世界から流れてきた魂が肉体に宿るタイプ。コイツが観測されてる中じゃ1番多いな。さらに分類があって、機械の世界から来たのが『ブリキ』、野獣の世界から来たのが『キバ』、そして最も危険な魔境の世界から来たのが『レイオン』だ。ただ、コイツらの魂は自我が強くてな。肉体の本来の持ち主――主魂を殺して、肉体の主導権を奪ってしまう事例が多々ある。殆どが先天的なものだが、稀に後天的に宿る者もいるから、お前らも気をつけるんだぞ。まぁ、宿っちまったらどうしようもないけどな」


じゃあ、気をつける意味がないでしょうが。


「そして二つ目。コイツらは今言った奴らと似ているが少し違う。肉体の中で二つの魂が共生しているタイプだ。いや、共生というよりは『使役』しているって言った方が正しいか。元の肉体の魂である主魂の自我が、放浪者である別の魂の自我よりも強いと、その魂を押さえつけ、己の支配下に置くことができるそうだ。このタイプのヤツらは、支配下にある魂の力を自身に引き出すことが可能らしくて、人間離れした身体能力や謎の力を扱うことができる。少し前までは危険視されて政府に拘束されていたが、最近だと軍事利用している国が多いそうでな。日本も似たようなことをしているらしい。詳しくは知らんが」


担任は額に滲んだ汗を、灰色のくたびれたタオルで拭き取る。

僕が座る席は、いわゆる窓際最後列の「主人公席」と言えば聞こえは良いが、実際にはエアコンの真下で風が1ミリも来ないし、容赦ない日差しが降り注ぐだけの、完全なハズレ席だ。


「そして最後に、コイツが最も稀な存在だ。今までのヤツらとは、稀少価値も強さも桁違いだ。さっき説明した二つのタイプはどちらも一貫して『別世界の魂』が肉体に宿るタイプだったが、コイツらは違う。コイツらの肉体に宿っているのは、いわば『神』だ。なんだっていい、海や陸、空や火水風土……この世に存在する森羅万象には全て神が宿っているという。その神が現世に存在を顕現させる際に、その神の欠片を落とすそうだ。その神の欠片が肉体に魂として刻まれることで、コイツらはさっきの二つと同様な存在に成れる。コイツらは桁違いの力を有している分、観測数も極めて少ない。確か、世界でも四体ほどしか見つかっていないようだ」


神だの魂だの、そんなスピリチュアル的な存在を、一体どうやって科学的に発見するんだか。


「そして最後に、この三つのタイプの存在を総じてーーーー」


キーンコーンカーンコーン……


担任が人差し指を立てて皆を見据えた瞬間、黒板の上に着いているスピーカーから、無慈悲なチャイムの音が学校全体へと響き渡った。


「っと、そういや今日、短縮授業だったな。じゃあ、号令ー」



放課後、僕はいつものように一人で下校の途についていた。

片耳にだけイヤホンを挿し、世界のノイズを半分だけ遮断しながら、ぼんやりと茜色に染まり始めた空を眺める。脳内では、今日一日の出来事が脈絡もなく再生されていた。


(陸上部、関東大会出場……か。確か、教室の後ろに貼ってあった学年新聞のトピックスだな……)


僕の脳は、僕の意思に関係なく、視界に入った光景をカメラのフィルムのように鮮明に記憶の奥底へと刻みつけてしまう。

カシャリカシャリと、シャッター音が聞こえてきそうな精度で、見たもの全てを記録していくのだ。


(下駄箱の前の、あの中間テストの順位表も最悪だった。なんでわざわざ名前を張り出すかなぁ……)


次の記憶が脳裏をよぎる。

学年のテッペンに刻まれた僕の名前。

それを見る周囲の、羨望と、それ以上に嫉妬と好奇の入り混じったあのドロドロとした視線を思い出し、小さく吐き気がした。


(義務教育だけで十分だったのに。叔母さんは世間体ばかり気にしてやがるし……)


高校に進学すれば、少しは退屈な日々に変化が起きるかもしれないと、ほんの僅かだけ期待していた自分が馬鹿みたいだ。

待っていたのは、中学時代と何一つ変わらない、無味乾燥な授業と口うるさい教師の小言だけ。


「いっそのこと…ラノベみたいな非日常的な展開でも起きないかな」


例えば、異世界から最強の魔王が転生してくるとか。

――あるわけないか。

あまりにも現実味がない。

そんな下らない妄想を吐き捨てながら、少しでも早く家に帰ろうと、住宅街の狭い路地へショートカットするために足を踏み入れた。

その瞬間、僕の「カメラ」が、奇妙極まりない光景を捉えて静止した。


「あ」


「……」


それは間違いなく、今日一番の無駄な記憶として脳に刻まれることになっただろう。

一人の男子高校生が、民家のコンクリート壁にぽっかりと開いた小さな空洞に腕を根元まで突っ込み、必死の形相で身悶えしている光景だった。


「ハジメぇ~~~!!」


その男――阿留都冷は、僕の姿を見るなり、地獄で仏にでも会ったかのような歓喜の表情を浮かべて僕の名前を絶叫した。


「いやぁ〜良かった、マジで助かった! 穴の中に五十円玉が落ちてるのを見つけてさぁ、ラッキー!と思って取ろうとしたら、腕が抜けなくなっちゃってさぁ!」


「…………」


世の中には色んな変質者がいるもんだな。

僕は完全なる他人の振りを決め込み、彼の手前で綺麗に回れ右をして、元来た道を戻ろうとした。


「ハジメぇ! 見捨てないでくれよぉ! さっきから全然抜けないし、マジで怖いんだって! 腕を引こうとすると、なんか奥の方で『グッ!』ってなって『ギギギィ!』って変な音がするんだもん!」


なんだよその頭の悪そうな擬音は。

僕は大きく溜め息を吐き、踵を返して冷の前に歩み寄る。


「はぁ……。お前、どうせ穴の中で五十円玉を握りしめたまま拳を引こうとしてるから引っかかってんだろ。手を離して、真っ直ぐ引け」


「あ、たしかに」


目から鱗が落ちたような顔をした冷が、手の力を抜いてすんなりと腕を壁から引き抜いた。


「いやぁ助かったぜ! さすがハジメ、頭いいな!」


「猿かテメェは」


冷は引っこ抜いたばかりの、コンクリートの粉まみれの手で僕の背中をバシバシと豪快に叩いてくる。

一応、僕の幼馴染だ。

そして、先ほど思い出した記憶の一部――我が校の陸上部を関東大会へ導いた絶対的エースというのも、目の前でバカみたいに鼻を擦っているこの男の戦績だった。


(身体能力だけは人間を辞めてるレベルなのに、どうして頭脳のスペックがここまで反比例してんのかな……)


「なぁなぁハジメ! 二限目に先生が言ってた『魂』の話、どう思うよ? クソカッコよくね?」


「そうだな」


「あんな未知のエネルギーみたいな力があったらさ、俺、真っ先に『超ひもQグミ』の販売を再開させるぜ!」


「やることのスケールが小さすぎるだろ」


「じゃあ、国家転覆」


「インフレがすぎる」


何の生産性もない会話をテンポよく繰り返しながら、夕暮れの帰路を歩む。

すると、前方の曲がり角の向こうから、いかにもガラの悪そうな男たちの品性の欠片もない声が風に乗って聞こえてきた。


「お嬢ちゅわぁ〜ん、俺達と一緒に、ベビースターラーメンを濃いめに煎じた特製のお茶……飲みいかねぇ?」


「あの……ちょっと、急いでるんで……」


「まぁまぁ、そう焦らずにさぁ? 今ならタン塩味のお茶もあるぜぇ?」


「ぜぇ?」


見ると、絵に描いたような三人組のゴロツキが、一人の女子高生を取り囲んで、所謂『ナンパ』という名の嫌がらせを働いていた。

というか、真ん中のリーダー格の男、すっごい内股だな。

キャラのクセが強すぎて逆に怖い。


「ハジメ、あの子めちゃくちゃ困ってるっぽいぜ」


「だな」


「どうするよ?」


「決まってんだろ……」


僕と冷は物陰に身を潜めながら、その様子を冷静に見据える。


「帰るぞ」


僕はカバンのストラップを強く引き直し、何事もなかったかのように歩みを再開した。


「待てぇい!!」


だが、僕の平穏はわざわざ大声を上げてゴロツキどもに突っ込んでいった馬鹿の手によって粉砕された。

僕は一秒でも早く帰りたかったが、こうなってしまったらもう、このお節介なバカを止める術はない。


「あぁん? ぬぁんだテメェらは! 俺らは今、この子とチョメチョメな時間を過ごしてんだよ! 邪魔すんじゃねぇ!」


男たちが冷の乱入に激昂する隙を突き、囲まれていた女子高生は蜘蛛の子を散らすようにその場から猛ダッシュで退散していった。

ターゲットを見失ったゴロツキたちの怒りの矛先が、完全にこちらへと向く。


「フッ……デカい口叩きやがって。このハジメさんの圧倒的な実力を見ても、まだそんな舐めた口が叩けるのかなぁ!?」


なんで僕。


「なんでテメェじゃなくて、そっちの大人しそうな奴なんだよぉ!!」


当然の疑問を叫びながら、ゴロツキAが冷の顔面に向けて大振りの拳を放つ。

冷はその一撃を、まるで飛んできたハエでも避けるかのように軽々と回避すると、流れるような動作で男のディフェンスの手を跳ね上げ、内側から電閃のようなローキックを叩き込んだ。


「ぐえ?」


鈍い破壊音。

冷の放った常人離れした馬鹿力の一撃は、一瞬でゴロツキAのガードした腕の骨を容赦なくへし折った。


「ぎぃいやあああぁぁぁ!! 腕が、俺の腕がああぁぁぁ!!」


「「兄貴ぃ!!」」


相変わらず、力加減というものを知らない男だ。

折れた腕を必死に押さえ、地面に転がって悶絶するゴロツキA。

残されたBCの二人が、慌ててその身体を抱き起こす。


「て、テメェら……よくも兄貴を!」


「ハッ! 俺とハジメのタッグは無敵で最強なんだぜ! 震えて眠りな!」


「ハジメ……?」


ゴロツキどもを見下ろす冷の言葉に、苦悶の表情を浮かべていたゴロツキAが過敏に反応した。

男は脂汗を流しながら、蔑むような、歪んだ笑みをその口元に浮かべて僕を凝視する。


「あぁ…聞いたことあるぜ。確か…飯島肇とかいう名前のやつだろ? あの『人殺しの息子』って、近所じゃ有名だぜ……!」


「ッ……!」


その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、僕の脳裏にドス黒い記憶がフラッシュバックする。

僕は奥歯が軋むほど強く噛み締め、拳を握りしめながら、彼らを蔑むような冷たい目で睨みつけた。

そして、それ以上何も言わず、ただ黙ってその場を後にした。


「あ、おいハジメ! 待てって!」


「アベシッ!」


背後で、残っていたゴロツキBCを軽い一蹴で往なした冷の足音が、慌てて僕の後を追いかけてくるのが聞こえる。


「おい、ハジメ! あんな奴らの言うこと、気

にするなって! 誰もあんな噂、気にしてねぇよ!」


冷が僕の歩調に合わせ、気遣わしげに僕の肩を掴んできた。

――その手を、僕はこれ以上ないほど冷徹に、強く振り払った。


「いいって…そういうの……」


「ハジメ……?」


「迷惑なんだよ…そうやって、上辺だけで気を遣われるの。僕のことを理解してる風な口を利くけどさ、そういう奴って、結局は『可哀想な奴を慰めてる優しい自分』に酔ってるだけだろ。相手の本当の痛みなんて、何一つ理解しようとしてない。――二度と、上辺だけで人の人生に口出ししてくるな……!」


冷酷な言葉をぶつけ、立ち尽くす冷をその場に置き去りにしたまま、僕は足早に薄暗い我が家への道を急いだ。


「ハジメ………………」


夕闇の中に、幼馴染の掠れた声だけが寂しく取り残されていた。



「クッソォ……あのクソガキども、腕が、腕が痛ぇぇ……!!」


肇と冷が去った後、取り残されたゴロツキの三人組は、薄暗い路地裏のコンクリートにどろりとした赤黒い血を滴らせていた。


「兄貴、そんな無理して動かない方がいいっすよ」


「マジでやばいって、早く病院行きましょうよ!」


舎弟の二人が、本気で心配そうな声をかけて兄貴分の身体を支える。


「うるせぇ……ッ! あんなガキ共にやられっぱなしでいられるかってんだよ! ぜってぇ思い知らせてやる……! 俺を怒らせたらどうなるかってことを……!」


「良いぜ、じゃあそいつをくれてやるよ」


刹那――三人の頭上から、鼓膜にへばりつくような不気味な声が響いた。

声の主は、重力を無視したような動きで一瞬にしてゴロツキたちの眼前に飛び降りると、腕を折られて蹲るリーダーの額に、音もなくその手のひらを当てた。


「な、何を――ひッ!?」


「安心しなぁ……。お前みたいなゴミは、ちょっと生まれ変わるだけだ。爬虫類なんか良いんじゃねぇか? 元の顔も、トカゲそっくりだしなぁ」


男の手が触れていた額が、内側からボコボコと異形に膨れ上がり、瞬く間に悍ましい深緑色の鱗へと変質していく。


「あ……兄貴……? その顔……!」


『繧上*繧上*鄙サ險ウ縺ゅj縺後→縺?』


「兄貴! やめッーーーーー!!」


薄暗い路地裏に、肉と骨が強引に作り変えられるグシャリという不気味な咀嚼音が響き渡る。

地獄のような断末魔さえも、その凄惨な光景を愉しげに見下ろす男の耳には、心地よい子守唄にしか聞こえていなかった。



その日の夜。

僕は一人、重苦しい空気の満ちた家を抜け出し、近くのコンビニにいた。

目的は、断線した充電ケーブルと、予備のモバイルバッテリー。

愛想の悪い店員の態度に舌打ちしたくなるのを抑え、イヤホンを耳に押し込む。

帰り道、ふと公園の遊具が街灯に照らされているのが見えた。


「何してんの?」


十数年前の記憶。

公園の隅で、一人泥遊びをしていた僕に声をかけてきたのが、引っ越してきたばかりの冷だった。


「ダンゴムシ集めてる……」


「ダンゴムシ! 俺も好き! 見せて!」


「……!じゃあ、これとか……」


僕は冷に話しかけられたのが嬉しくて、首からかけていた虫かごから一匹のヒラタクワガタを取り出す。

でも、大きさはそこまで大きくなく、なんならヒラタの中でも小さい方だ。


「すげー!クワガタ!俺もカブトムシ家にいるんだぜ!見せてあげる!」


「…うん!」


人殺しの子供だと後ろ指を指され、輪に入れなかった僕を、彼は何の色眼鏡もなしに世界へ引きずり出した。


「……あいつは、どうせ僕のことなんて気にしてないんだろうな」


「誰が?」


背後から響いた聞き覚えのある声に、肩が跳ねた。


「……っ、冷?」


そこには、塾帰りだろうか、自転車に跨った冷が立っていた。


「え、な…何して」


「いやー普通に塾帰り。お前こそ何してんだよこんな時間に」


「え?あ、僕は買い物……」


その瞬間、僕は放課後に冷にしたことを思い出す。


「いや…別になんでも……」


きっと怒っている。

あるいは、僕の言葉を肯定し、冷めた目で見ているに違いない。

そう身構えた僕に届いたのは、意外な言葉だった。


「…俺、お前になんか悪いことしちまったかな?」


「え……?」


「いや、さ。帰り際、すげー怒ってたろ? だから、何か嫌がるようなこと言っちゃったかなって……心配でさ。もし俺と一緒にいるのが嫌なら、もう無理には誘わねぇからさ」


違う。

そうじゃないんだ。

僕が自分を許せないだけで、お前に非なんて一つも――。


「……冷、僕は」


言いかけたその時。

冷の顔が、見たこともないほど蒼白に染まった。

彼の視線は僕を通り越し、僕の背後……頭上の闇を射抜いている。


『縺ィ縺上→縺上°縺?シ√→縺上→縺上°縺?シ』


電子音がバグったような、不気味な声が鼓膜を震わせた。


「肇!! 逃げ――ッ!!」


冷が叫びながら僕を突き飛ばす。

その直後、視界が真っ赤に染まった。


「……え?」


「ガハッ……! ゴフッ……!」


僕を庇うように割り込んだ冷の腹部を、巨大な「何か」の爪が斬り裂いた。

冷は吐血し、崩れるように僕の上に倒れ込む。

街灯の下にぬるりと姿を現したのは、亀のような醜悪な頭部を持つ怪物だった。

額に埋め込まれた赤い宝石のような瞳が、獲物を定めた悦びに歪んでいる。


「冷!? おい、しっかりしろ! 冷!!」


『縺?d繝シ縲√d縺」縺ア繧翫』


怪物は歪んだ口元から血を滴らせ、ニヤリと笑った。

その爪には、冷の肉片がこびりついている。


「………ッ!!!」


恐怖が限界を超え、思考が爆発した。

僕は全力で、すぐ横に倒れていた冷の自転車を蹴り上げる。

不意を突かれ、空飛ぶ鉄塊に一瞬だけ怯んだ怪物の隙を見逃さなかった。

僕は必死に冷の腕を自分の肩に回し、その体を抱え上げて、無我夢中で駆け出した。


「ハァ……! ハァ……! ハァ……!!」


重い。

普段から運動を避けてきた僕にとって、自分より一回り大きい冷を担いで走るのは死ぬほど過酷だった。

けれど、背中から伝わる冷の弱々しい吐息が、止まりそうな足を無理やり前へと進ませる。


(なんで……なんでこんなことに……!)


冷の腹部には、あのニュースで聞いたものと同じ「鋭い切り裂き傷」が刻まれている。

今朝、担任が話していたあの不吉な内容が、最悪の形で現実となって僕たちを追い詰めていた。


(あの見た目…頭部の異形……。肉体を奪われた、主導権を握った方の魂か……!? だとしたら、早く……!)


肺が焼けるように熱い。

僕は走りながら、震える手でポケットからスマホを掴み出し、血で滑る画面を操作して「110」を叩いた。


「埼玉県さいたま市、場所は――――」


詳しい状況を説明する余裕はない。

場所だけを叫び、僕は電話を切った。

これで警察が動いてくれることを祈るしかない。


凄く、怖かった。


あの化物に殺されそうになったことも、冷が死んでしまいそうになっている状況も。

しかし、本当に怖いのはそれらではなかった。

本当に怖いのは――――



(なんで…なんで僕は…冷が死にそうなのに、あの化物に殺されかけたのに、冷静に考えられてるんだ……?)



まともな自分が何よりも怖くなった。

まるで、命をなんとも思っていないような自分が。


「ハァ……ハァ……! とりあえず、ここに身を隠そう……!」


僕は振り返り、まだあの化け物が視界に入っていないのを確認して、すぐ横にあった廃ビルの、壊れた防犯扉の隙間へと滑り込んだ。

古びた階段を上り、月明かりが照らす床へと冷を寝かす。


「ハァ…ハァ…まずは止血しないと…」


まずはバイタルを確認する。

首筋に指を当て、脈を測る。

速いが、力強い。


「……息はある。出血も、動脈じゃない。静脈性だ。よし、腹腔鏡下で見るまで断言はできないが、致命的な臓器損傷は免れてるはずだ……」


僕は震える手で自分のシャツを脱ぎ捨て、手早く何重にも折りたたんだ。

それを冷の腹部の裂傷に当てがい、自分の体重をかけて強く押し込む。

直接圧迫止血。

今の僕にできる、精一杯の救命処置だ。


「ハハ……お前じゃなかったら、今ので死んでたぞ。冷」


普通の人間なら、ショック症状でとっくに心停止していてもおかしくない出血量だ。

だが、冷の体は昔からどこか「異常」だった。


「お前は昔っから、本当に同じ人間かって疑うくらい頑丈だったよな……」


体育の成績は常に学年上位。

どんなスポーツも、一度見ただけでプロのような動きを模倣してみせる。

その圧倒的な身体能力は、子供の頃から大人を凌駕していた。


「ホント……どうなってんだよ。なんで、そんな最強のお前が……僕なんかを庇うんだよ……」


一番理解できないのは、その超がつくほどの「お人好し」だ。

僕が窮地に陥れば、自分の損得なんて一顧だにせず、真っ先に飛び込んでくる。

たとえそのせいで、自分自身が傷つくことになっても。


「……よし、とりあえずの圧迫は維持できる。あとは……」


僕は一度立ち上がり、暗闇に慣れた目で、自分が上がってきたばかりの階段を見下ろした。


(血痕がベッタリ残ってちゃあ、あの化け物に場所が割れちまう。跡を消さねぇとな……)


僕は階段を下り、入口辺りに体を低くして、床に点々と続く黒赤い血痕を確認する。


「あの化け物はまだ追いつけてないっぽいけど、血痕がここまで案内しちまってる。バレるのも時間の問題だ。あいつの足が亀並みに遅くなきゃ、今頃とっくにお陀仏だったな……」


僕は周囲の砂や埃を靴で蹴り、血痕の上に被せることで、冷がいる場所までのダイレクトな道標を不器用に消していく。


(けど、完全に消すのは無理だ。あいつの鼻を騙す用の、別の偽の血痕がないと、時期にここに辿り着かれる。あぁクソッ……! 刃物か何か、使えるものは落ちてねぇのか……!)


僕は頭を抱え、自分の指でも噛み切って血を流すかと模索した、その時。

突然、僕のすぐ足元に、カランと硬質な金属が床に落ちたような音が響いた。


「っ!?」


僕はすぐさま身を引いて警戒する。

恐る恐る床を確認すると、月明かりの反射の中に、なぜか新品同様の、鈍い輝きを放つサバイバルナイフが一本、ぽつんと落ちていた。


「な、なんで……なんでこんなところに、ナイフが……?」


僕は吸い寄せられるようにそのナイフを拾い上げ、周囲の暗闇を確認するも、人影はどこにも見当たらない。


(偶然、ここに落ちていたのを僕が発見しただけ…? いや、そんな都合のいい話があるか? だが…まぁいい。今は利用させてもらう……!)


深く考えるのをやめ、僕はそのナイフの柄を逆手に握りしめると、自身の手首の皮膚を、躊躇なく軽く切り裂いた。

痛みが脳を刺激する。

出血過多で僕が先に倒れちゃ元も子もないので、親指で傷口を圧迫しながら、地面に自分の血を滴らせていく。


「引きずるように……そうだな…あの奥の部屋までルートを伸ばそう」


僕は手首から生々しい血を滴らせ、冷のいる階段とは真逆の、奥の薄暗い部屋まで偽の痕跡を引き延ばしていった。これで、数分は時間を稼げるはずだ。

僕は部屋を飛び出し、冷が倒れている二階の場所まで、自分の手首の血を服の袖で強く押さえながら階段を駆け上がった。


(にしても、なにか妙だな……。あの亀野郎……いくらなんでも、僕たちを追ってくるのが遅すぎる。どれだけ足が遅い個体だとしても、流石に不自然だ……)


脳の片隅に、冷ややかな違和感がこびりつく。

まるで、僕たちはただ必死に逃げ回る姿を、上から愉しそうに観察されているだけのような、薄気味悪い感覚。しかし、今の僕にはそれを検証する術はない。


「けど、来ないなら来ないで好都合か……。今のうちに病院へ――」


僕は寝かせている冷の体を再び持ち上げ、ここから脱出しようと試みた。

しかし次の瞬間、僕たちの唯一の光源であった、窓から差し込む美しい月光が、巨大な「黒い影」によって完全に塞がれた。


「は……?」


窓枠の向こう。

そこに浮かんでいたのは、赤い瞳でこちらを嘲笑うように覗き込む、あの亀の顔だった。


ガシャアアアアアン!!!


「がぁッ」


窓ガラスを突き破り、迫った怪物の爪が、僕の肩を深く抉る。


「あ…が……っ」


地面に転がり、肺の空気が押し出される。


『縺セ縺翫¥繧牙?騾」霈峨@繧医≧縺懶シ』


追いついた怪物はゆっくりと歩み寄り、僕の上にのしかかった。

獲物をすぐに殺さず、恐怖を味わわせる。

その狡猾な目に、僕は一縷の勝機を見出そうと必死に思考を巡らせる。


(……冷静になれ。こいつは僕を『餌』だと思ってる。なら、油断させろ)


僕は震える手で、近くに落ちていたレジ袋の中のモバイルバッテリーを握りしめた。

さらに、もう片方の手には金属製の充電ケーブル。


「喰うんだったら…先に僕を食えよ……!」


僕は自嘲気味に笑い、怪物の口元に手を差し出す。

怪物は嘲笑うように口を大きく開いた。

その瞬間、僕はバッテリーの端子部分に、先程のナイフで無理やりケーブルの端子を突き刺し、ショートさせた。


「――っ!!」


リチウムイオン電池が熱暴走を起こし、火花を散らす。

強引に怪物の口内へその「爆弾」を叩き込み、同時にケーブルのワイヤーを首に巻きつけ、全体重をかけて締め上げた。


『ギ、ギャアアアアッ!?』


口内で破裂したバッテリーの熱と、首を絞められる圧迫感に怪物がのたうち回る。

だが、化け物の筋力は僕の想像を遥かに超えていた。


(オマケにこのナイフを…!!!)


僕はナイフを亀野郎の喉元に突き立てる。

しかし……。


「グッ……!」


引きちぎられた。

ケーブルが、そして僕の抵抗が。

僕は軽々と吹き飛ばされ、地面に力なく倒れる。

怪物は激昂し、顔を半分焼き爛れさせながら、僕ではなく、背後に転がっている冷へと爪を振り上げた。


(あ…しまっ……!!)


標的を変えられた。

僕が余計なことをしたせいで、冷が――。

嫌だ。

死んでほしくない。

あの時、決めたんだ。

僕は―――――


『いつも一緒にいる理由?うーん、理由とかそんなんはねぇけどよ。強いて言うなら…お前が俺にないものを持ってるから……かな!』


いつか冷が笑って言った言葉が、頭の中でリフレインする。

自分さえ良ければいいと思っていた。

人殺しの子供だと自嘲して、世界を拒絶していた。

けれど、こいつだけは。

こいつだけは死なせたくない!!


『イヤダアアアアアアァァァァァァァ!!!!!!』


叫びが、夜の公園に木霊した。

しかし、それは僕の声ではない。

その瞬間、世界の時間が止まったかのような錯覚に陥る。

怪物の爪が、冷の喉元数センチのところで止まっていた。

否、止められていた。

そこには、いつの間にか一人の「ヒトガタ」が立っていた。

全身が透き通るような白。

顔も、髪も、服もない。

ただ頭部の中心に、光を一切反射しない深淵のような黒い穴が一つだけ空いている。

その細い、しかし鋼のような腕が、怪物の剛腕を軽々と受け止めていた。


「……ッ!!!」


白いヒトガタは、一切の躊躇なく力を込める。

バキ、という嫌な音と共に怪物の腕が引きちぎられ、そのまま音速を超える手打ちが怪物の胴体を薙いだ。

衝撃波が公園の木々を揺らす。

一瞬前まで生々しい殺意を放っていた怪物は、抵抗する間もなく肉塊へと変わり、やがて光の粒子となって霧散した。

静寂が戻る。

残されたのは、意識を失った冷と、僕を見つめる白い「何か」。

僕は、それを知っていた。

魂の共生。内なる力の具現。

十四年前に始まり、今や世界の理を変えつつある異能の存在。


世界は、それらをこう呼称した。


総じて――――『転生者』と。


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