89 被弾しました
足元には、果てという概念を忘れたかのように、どこまでも、どこまでも続く真っ白な雲のじゅうたんが広がっていた。
綿毛のように柔らかそうで、指先で触れればそのまま沈み込めそうな見た目――とは裏腹に、一歩でも踏み外せば、その下には底の知れない蒼穹の深淵が口を開けて待っている。
そう思った瞬間、胸の奥がざわりと騒ぎ、内臓の芯が冷たく震えた。
なのに。
同時に、心のどこかが不思議なほど軽い。
恐怖と解放感が同時に存在する、この矛盾した感覚は、一体なんなのだろうか。
遮るもののない頭上から降り注ぐ太陽光は、まるで研ぎ澄まされた刃のように一直線で、白と青の境界線を、ためらいもなく、くっきりと切り分けていた。
ここは、上空10000m。
空気は薄く、肺に吸い込めば喉の奥がひりつくほど冷たい。気温は凍りつくほど低いはずなのに、視界に広がるのは、どこまでも穏やかな昼の空だけ――現実感が希薄になるほど、奇妙な世界である。
私は今、S王国を目指し、音速で空を駆ける馬型の機械人形に跨っていた。
その蹄が一歩踏み出すたび、ぱん、と軽い破裂音を立てて、透明な足場が生まれては消えていく。
浮遊ではない。飛翔でもない。
これは――疾走だ。
大地の代わりに空を踏みしめ、全力で走り抜けている。そんな感覚が、背骨を伝って電流のように駆け上がってくる。
暗黒物質から精製した聖衣を可変させ、空気抵抗を極限まで削いでいるため、風が肌を打つ感触すら、ほとんど感じない。
ごう、という風切り音もなく、耳に届くのは、機械人形の脚部が刻む電子的な蹄音だけだ。
カン、カン、と乾いた音が、一定のリズムで空に溶けていく。
その規則正しさが、かえってこの高度の孤独を際立たせていた。
とはいうものの、ここは酸素濃度が極端に低く、気温はマイナス50℃。
生身の人間なら、ほんの数十秒で意識を失い、そのまま命が尽きるだろう。
間違いなく、“死の世界”と呼ぶにふさわしい高度であった。
私の愛機――この機械人形は、古代人が作り上げた特殊な生命体だ。
自己増殖、自己修復を行い、なおかつ現代の生物を凌駕する速度で進化を続けているという。
いつか彼らが世界の覇権を握る日が来るのかもしれない。
そんな想像が、雲を眺めるように、ふと脳裏をよぎった。
空を走り始めて、およそ25分。
ようやく、地平の向こうにS王国の首都が姿を現す。
規模こそ帝都の1/10ほどに過ぎないものの、それでも大陸第2位を誇る巨大都市だ。
中心には高い丘がそびえ、その頂に、どっしりと腰を据えた城が鎮座している。
そこから裾野へ向かって、古い町並みが迷路のように入り組み、幾重にも重なって広がっていた。
貿易で栄え、秩序だった帝都とは対照的に、この首都は完全に軍事防衛を目的とした街――そんな印象が強い。
周囲には、かつて大陸を震撼させたであろう古代兵器がいくつも並んでいるが、扱える技術者が失われた今では、どれも沈黙した鉄の亡骸と化している。
……そのはずだった。
着地点を探すため、私はゆっくりと高度を落としていく。
速度を、ほんのわずかに緩め――
その、わずかな油断。
胸の奥で、ぱちん、と乾いた火花が弾けた。
――――スキル<未来視>。
視界が引き裂かれるように歪み、まだ訪れていないはずの光景が、強引に割り込んでくる。
距離4000m先。
寿命を迎え、完全に停止していたはずの連射式機関砲、8門。
それらが、まるで死体が息を吹き返すかのように、がくり、と重い首を起こし、こちらへと照準を合わせてくる。
一拍遅れて――
全門発射。
35×228mmの貫通弾。
私ひとりを貫き殺すためだけに放たれる、無慈悲な雨。
閃光、轟音、衝撃。
まだ起きていない未来が、異様なほど鮮明に、私の脳裏へ焼き付いてきた。
「……どうして。停止していたはずの機関砲が、動き出したのか」
漏れた声は、自分でも驚くほど静かで、冷たい空気に溶けるように揺れた。
同時に、忘却の底に散らばっていた情報が、静かに、しかし確実に繋がっていく。
――そういえば。
死霊王は、元は鍛冶職人だった。
おそらく奴は『千里眼』で私の軌道を正確に読み取り、停止していた古代兵器を瞬時に修復し、迎撃態勢を整えたのだろう。
そう考えれば、すべて辻褄は合う。
とはいうものの……状況は最悪だった。
今の私は、月の加護を失った状態。
仮に“運命の弓”を引き寄せたとしても、8門同時射撃の弾丸すべてを撃ち落とすなど、無茶にも程がある。
隣を駆ける機械人形は、迫り来る死の雨に、まだ気づいていない様子だった。
選択肢は――ほぼひとつ。
被弾を覚悟し、正面から受け止めるしかない。
そして、いま!
未来視で見た通り、約4000m彼方の砲台群から、貫通弾が怒涛の勢いで撃ち放たれていく。
白く鋭い弾道が、ズドン、ズドン、と空気を裂きながらこちらへ殺到し始めた。
着弾まで、あと3秒。
これは、皮膚を掠める程度で済む攻撃ではない。常識があれば、誰でも理解できる。
「信仰心により、防御力を上昇させます」
息を深く整えた、その瞬間。
暗黒物質に刻み込まれた信仰心が脈動し、熱と光を帯びて膨張していく。
生成された聖衣が外側へ広がり、私を中心に楕円状の光膜を展開した。
薄い卵殻を一枚ずつ重ねていくように、二層、三層。
光は厚みを増し、やがて頑強な防御壁へと変質していく。
最大強度――とはいうものの、迫り来る弾頭の威力を完全に遮れるかは、正直怪しい。
――覚悟なら、もうとっくに決めていた。
迫る貫通弾の軌跡が、夜空に刻まれる無数の裂け目のように、はっきりと視界に焼き付く。
来る。
カウントダウンが刻まれていく。
3。
2。
1。
――――着弾。
三重に展開した聖衣のシールドが、殺意を宿した弾丸を次々に弾き返していく。ものの……
その刹那、世界の動きが、糸を引くように引き伸ばされた。
極限集中による錯覚なのか、それとも死の縁に立った者だけが見る光景なのか。
とはいうものの、防ぎきれなかった衝撃圧が、容赦なく身体を貫いた。
ぶちぶち、と嫌な音が響く。
骨が砕け、臓器が押し潰され、身体の軸がずれていく感覚が、あまりにも生々しい。
視界は闇へ沈み、音も遠のく。
それでも、衝撃の轟音だけが、直接脳を叩き続けていた。
ぷつり。
思考が、断ち切られた。
次に目を覚ますのは、いつになるのだろう。
そんな諦観が、ほんの一瞬、意識をよぎる。
やがて闇が薄れ、白い光条が視界を横切った。
神経の修復が追いついていないのか、不思議なほど痛みはない。
心臓が、どくん、とゆっくり鼓動を刻み、失われた血が再び満ちていく。
意識が、澄み渡る。
気づけば。
落下していた私の身体を、機械人形がしっかりと抱き留めてくれていた。
「機械人形は無傷だったようですね」
私は神託に従う者だ。基本的に判断を誤らない。
とはいうものの、その結果が、人や魔物にとって良いものとは限らない。
狡猾さも、非道も、嫌いではない。
神託次第では、現最強のドラゴンでさえ、躊躇なく切り捨てるだろう。
――いつか必ず、報いを受ける。
そう思っていた。
まさか、その“最初の相手”が、死霊王だとは。
……やはり。
私の人生は、まだまだ先が読めないらしい。




