90 無自覚英雄譚
見上げた、その刹那だった。
空いっぱいへと広がる新緑の枝葉が、幾重にも、幾重にも重なり合い、まるで森そのものが巨大な天蓋となって、頭上を覆い尽くしているかのように見えた。
陽光は葉の隙間から細い筋となって差し込み、淡い緑の影を地面へと落としている。その光景は美しく、同時に、どこか息苦しいほどの圧を孕んでいた。
足元に雑草の姿は、ほとんどない。
地面一面を覆うのは、柔らかな苔だけだ。踏み込めば“しん……”と微かに沈み、音というよりも、感触だけが足裏に伝わってくる。その静けさが、かえって異様だった。
ここまで私を運んできてくれた機械人形の影は、すでに上空へと退避させてある。
頼れるものは、自分自身のみ──そう、思っていた。
そのはずだった。
しかし、森がもたらす静寂の、さらに奥。私はすでに、完全に包囲されていたのであった。
音が、ない。
虫の羽音も、獣の息遣いも、風が草を撫でる気配すらも、すべてが途絶えている。世界そのものが、音を失ったかのようだった。
その静寂の中に、立ち並んでいるのは──骸骨達。
何百、いや、この密度からして1000体は下らないのではないか。木々の影に溶け込み、苔と同化し、完全に存在を殺している個体も多い。実数など、測れるはずもない。
それでも分かる。
空洞の眼窩が、無数に。確実に。こちらを捕えているということだけは。
骨が擦れる音すらしない。
呼吸も、脈動もない群体が、ただ“在る”だけで、森そのものが重く沈み込んでいるかのようだった。ぞくり、と背筋が震えかけた、その直前で──私は理解する。
──落下地点を、読まれていた。
着地と同時の包囲。寸分の狂いもない待ち伏せ。
これほどの骸骨軍を操れる存在など、そう多くはない。先ほど機関砲を撃ち込んできた敵と同一人物だとすれば、導かれる答えは、ひとつしかなかった。
死霊王。
その名を脳裏に思い描いた、その瞬間。
骸骨の群れの奥、霧の向こうから、黒いマントをまとった影が、ゆっくりと前へ進み出てきた。
「三華月様。ご無沙汰しております。あれほどの機関砲を正面から受け、傷ひとつないとは……やはり、御力は桁違い。さすがでございます!」
湿りきった森の中心で響く声は、金属板を爪で引っかいたような、あるいは骨が軋むような、冷たく、ひび割れた音色だった。
白い霧が木々の隙間を縫うように流れ、私と影の主を隔てていく。その向こうから漂ってくる気配は、単なる静寂ではない。
こちらを観察している“何か”がいる。
狙いを定め、息を潜め、牙を研いでいる。
そんな鋭利な戦気が、霧の奥に濃密に潜んでいた。
世界を滅ぼすほどの力でも欲しているのだろうか。
とはいうものの、私に勝てる相手かと問われれば、まずあり得ない。にもかかわらず、自ら姿を晒しに来るなど……。
あなたのTHE_ENDは、すでに確定している。
そう信じて疑わなかった、のだが。
その確信の、さらに奥。
胸の内で、ざわりと微細な違和感が揺れた。
覚えている。この感触。
かつて死霊王が放った魔獣──黒猫が用いた固有スキル『影武者』。影がひしゃげるように歪み、輪郭そのものが不安定になる、あの独特の圧だ。
「あなたは、死霊王の“影武者”なのでしょうか」
問いかけに、黒マントの影は微動だにせず、淡々と答えた。
「はい。想像主の影武者で、相違ございません」
やはり、本体は別の場所か。
藍倫の護衛という重責を背負う死霊王が、こんな森で不用意に姿を晒すはずがない。
とはいうものの、何かが腑に落ちない。
なぜ死霊王が、黒猫の固有スキルを扱えるのか。
その疑念が浮かんだ、まさにその瞬間。
まるで私の思考をなぞるかのように、影武者が口を開いた。
「何故、創造主が襲いかかってきた魔獣の固有スキルを使用できるのか……ご説明いたします。ご存じの通り、創造主は“千里眼”を持っておりますが、それは右目の能力でして。もう一方の左目には“複写眼”が宿っているのです」
複写眼。
観測したスキルを、そのまま自らの力として取り込む忌まわしい能力。つまり死霊王は、黒猫の『影武者』を見た瞬間に、それを吸収したというわけだ。
可能性は、極めて高いのだろう。
思い返すのは、88話の帝都。
私は死霊王をロックオンし、時間停止下で狙撃までした。それでも倒れなかった理由──もし、あれが影武者だったとすれば、すべて説明がつく。
やれやれ。
余計な力を、覚えさせてしまったものだな……。
私の微かな落胆を感じ取ったのか、影武者は続ける。その声音は、奇妙なほど死霊王本人と似通っていた。
「三華月様。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
ふわり、と霧が揺れる。
白い靄の向こうから響く声は、硬質でありながら妙に丁寧で、幾重にも礼節を重ねたような静けさを帯びていた。
「はい。どうぞ」
短く返すと、霧の中で骸骨の輪郭がわずかに揺れ、息でもついたかのような気配がする。
「ありがとうございます。三華月様は、創造主を討とうとしておいでのようですが──その理由を、教えていただけますでしょうか」
「死霊を狙った理由、ですか。それは佐藤翔の安全を確保するため。つまり、彼へ近づく危険な存在を排除しただけですよ」
言葉は、あくまで正論。
しかし胸の底には、もうひとつ、別の意図が沈んでいる。
建前としては、死霊王という規格外の脅威から佐藤翔を守るため。
ものの、真実は違った。
チートスキルを持ち、世界経済を混沌へ叩き落としかねない佐藤翔が、聖女・藍倫の庇護下に入ってしまえば、あまりにも厄介だ。
藍倫が守ると決めた存在には、必ず“最強の盾”が付き従う。
その盾が、今まさに目の前にいる死霊王。
ならば──先に砕くしかない。
そう判断しただけのことだ。
だが、影武者の返答は、その読みを軽々と裏切った。
「三華月様。その……佐藤翔とは。一体どなたなのでございますか」
──知らない?
佐藤翔を?
次元列車の予測では、彼のチートスキルによってS王国の経済は崩壊寸前に追い込まれ、それを止めるため帝国は聖女・藍倫を派遣した、はずなのだ。
なのに目の前の骸骨は、まるで別世界の話を聞くかのような声音で問い返してくる。
とはいうものの、死霊王が嘘をつく理由もない。
だとすれば──間違っているのは、私なのか。
霧に包まれた骸骨は、ピクリとも動かず、ただ静かに、私の言葉を待っている。空気の重みが、喉に絡みついた。
「佐藤翔が何者かと聞かれたら……そうですね。異世界から召喚された、駄目な男。そんなところでしょう」
「異世界から召喚……つまり“地上世界を混沌へ落とす者たち”に呼び出された男、という理解でよいのでしょうか」
「はい。その認識で差し支えありません」
「だとすれば、駄目ではあっても……彼は“被害者”なのではございませんか」
「はい。それは……その通りなのですが……」
淡々としたやり取りのたび、胸の内にざらりとした違和感が積み重なっていく。
悪役側にいるはずの存在が、あまりにも真っ当なことを言うものだから。
「三華月様。どうかなさいましたか。そこまで言いよどむほどの理由でも?」
「いや、何。骸骨なのに、すごくまともなことを言うから驚いただけですよ」
「……ああ、骸骨なのに、申し訳ございません」
しゅん、と肩を落としたような声音。
骨だけの身体なのに、落胆までもが手に取るように伝わるのは反則だ。緊張が緩み、思わず笑みがこぼれそうになる。
霧の温度が、わずかに和らぐ。
その隙を逃さず、私は問いを返した。
「では、こちらからひとつ。質問してもよろしいですか」
「はい。何でもお答えいたしましょう」
「聖女・藍倫の目的。S王国で、何をしようとしているのか教えてください」
影武者が、かすかに首を傾けた気配。
霧がひゅう、と渦を巻く。
「藍倫様が、“S王国で大きなレースがある”とおっしゃいまして。創造主は、その護衛として同行しておられるとのことです」
──レース。
つまり、賭け事。ギャンブルである。
その一言だけで、胸の奥に妙な納得が落ちた。
ああ、やはり藍倫だ。あの子なら、絶対にやる。やらかす。間違いない。
S王国に着いた途端、全財産を一気に賭けて、派手に散り、一文無し。
そんな未来が、ありありと脳裏に浮かぶ。
とはいうものの、藍倫の周囲には、いつだって事件が寄ってくる。
誰も触れたがらない問題が、“助けて”とでも言いたげに、彼女の足元へ転がり込む。そして彼女は、無自覚のまま、それらを片づけてしまうのだ。
死霊王という規格外を引き連れながら。
これは、もはや無自覚英雄譚。
いや、気づかぬうちに、幕はとっくに上がっていたのかもしれない。
藍倫の“良かれ”は、どうしていつも、私の望まぬ方向へ転がっていくのだろうか。
それが分かっていながら、止められない自分が、確かにここにいる。
霧の奥で、骸骨は静かに。
ただ、じっと。
こちらを見つめ続けていたのだった。




