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ブラックな聖女『終わっことは仕方がないという言葉を考えた者は天才ですね』  作者: ヨシムラ


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79 デフレスパイラル

海から吹き上げる柔らかな風が、そっと頬を撫でた。

塩気を含んだ涼やかさが肌の表面をくすぐり、湿り気を帯びた空気の奥に、微かに混じる潮の香りが鼻腔を刺激する。


次元列車に乗り込んでから、すでに6時間ほどが経過している。

先ほどまで窓の外を埋め尽くしていた白銀の氷雪地帯は、いつの間にか跡形もなく消え去り、今では視界のすべてが深い青へと塗り替えられていた。果てのない海原。360度を取り囲む水平線は、巨大な円環となって世界を切り取り、東の空から昇り始めた朝日が、緩やかな波のさざめきに反射して、きらきら、きらきらと瞬いている。


その光景は、まるで水面一帯に無数の宝石をばら撒いたかのようで、波間を滑るように飛ぶ海鳥たちの影が、細く、揺れながら水面に落ちていく。影が伸び、歪み、溶けるたび、時間さえも引き伸ばされているような錯覚を覚えるのだった。


1両編成の次元列車は、海上に忽然と出現するレールの上を、時速20kmという控えめな速度で進んでいる。

ガタン……ゴトン……と、規則正しく刻まれる揺れが車体を伝い、静謐な旅路に心地よいリズムを与えていた。その振動は足元から腰、背骨へと伝わり、身体の芯にまで染み込んでくる。


目的地はS王国。

神託に従い、佐藤翔の横暴を止めるため、その只中へ向かっている最中である。


車内の全長は12mほど。決して広くはないが、圧迫感はない。

中央には球体状のホログラムが浮かび、淡い光を放ちながら、ゆっくりと回転している。衛星経由で収集されたリアルタイム情報が、その内部で奔流となり、怒涛の速度で吐き出され続けていた。視認できるのは、ほんの一部にすぎない。それでも、情報という概念そのものが渦を巻き、うねり、溢れ出しているのが分かる。


とはいうものの、今、最優先すべきはただ一つ。

佐藤翔が滞在するS王国の現状を把握すること。それ以外に、意味はない。


「次元列車さん。リアルタイムで流れてくる情報について、お願いがあります」


私の声に応じ、車内スピーカーから合成音声が返ってくる。


「また私にお願いですか。前にも申し上げましたように、三華月様だけを特別扱いしてしまいますと、他の乗客に示しがつきません。どうかご理解願います」


「同じ費用を払った乗客には同じサービスを……とはいうものの、乗客なんて私以外にいないではありませんか」


「三華月様。他に乗客がいないからといって、特別扱いは出来ません。過去に利用して下さった乗客の事を考えますと、そのお願いは受け入れられないのです!」


「今の話、少しおかしくないですか」


「な、何がおかしいのでしょうか」


「次元列車さんの運行履歴を確認しました。私が最初の乗客です。過去に利用者なんて、いなかったはず」


「ぼ、僕の運行履歴を見たのですか!」


「はい、拝見しました。それよりも、運行履歴通り、過去に利用者がいなかったのかどうか、そこをはっきりさせましょう」


ぱたり、と次元列車は沈黙した。

ホログラム球体は相変わらず、何事もなかったかのように回転を続けているのに、空気だけが急に重くなっていく。圧がかかったように、肌にまとわりつく感覚。


記録によれば、彼――この次元列車は、数万年ものあいだ“死の世界”と呼ばれる氷雪地帯に停車したまま、一度も動かなかったらしい。

引きこもりAI……そんな言葉が、脳裏をよぎってしまう。


こちらとしても、結果的にマウントを取った形になってしまい、胸の奥がちくりと疼いた。とはいうものの、沈黙を続けていても状況は進展しない。


「お願いというのは、まず衛星からの情報を、S王国だけに絞ってもらえませんか」


「……まぁ、それくらいなら対応可能です」


「ありがとうございます。もう一つ。絞った情報を、私の脳内へ直接送ってください」


「可能ではありますが、それを行いますと三華月様に莫大な負荷がかかります。本当に、よろしいのでしょうか」


「構いません。よろしくお願いします」


視覚情報だけで処理するには、現在流れている情報量は完全にオーバーしていた。

脳内送信には慣れている。世界の記憶アーカイブを開くたび、何度も経験してきた負荷だ。今さら怯む理由はない。


次の瞬間――

ドン、と意識の奥に何かが流れ込んできた。


波ではない。川でもない。

それは、無数の光粒が嵐となって押し寄せる感覚だった。きらめく断片が、音もなく、しかし凄まじい速度で脳内を駆け抜けていく。一つひとつはバラバラでありながら、全体としては現実そのものを、過剰なまでに鮮明に再構築していた。


街並み、人々の表情、行き交う声、空気の温度――

その中に、ひときわ重たい情報が混じる。


S王国が、“歴史的なデフレ”に突入しつつあるという事実だった。


物価は軒並み下落し、貨幣価値だけが異常に上昇。

国全体が不景気の底に沈み、安価な装備品やアイテムが市場に溢れ返る。供給過多によって価格は崩壊し、商業ギルドは連鎖的に倒産。国内を巡るはずの金貨は停滞し、経済は完全に血流を失っていた。


デフレスパイラル。

その影響で失業者は増え、街全体に灰色の重苦しい空気が垂れ込めている。胸が詰まるほど、生々しい現実がそのまま脳内へ流れ込んでくる。


「次元列車さん。デフレを引き起こしている、過剰供給される装備品やアイテムの原因……分かるのであれば教えてください」


問いかけると、スピーカー越しの声は、どこか沈んだ調子で応えた。


「その原因を作っているのは……どうやら佐藤翔であるようです」


やはり、か。

その名が出た瞬間、胸の奥がピクリと揺れた。


佐藤翔。

処刑対象として、私が追い続けている男である。


本来、迷宮主のコア以外のアイテムは、地上へ持ち出した瞬間に霧散する決まりだ。

しかし、彼はその理から逸脱していた。チートスキルと称される力によって、迷宮内のドロップ品を丸ごと現実へ持ち帰っているという。


結果は、明白だ。

市場に武具が溢れ、価格は崩落し、経済は歪む。

国家の基盤を揺るがすには、十分すぎる大罪である。


さらに、神託は告げていた。

彼は異界の教徒に操られた傀儡であり、やがて莫大な富を国民へ分配し始める、と。


困窮に喘いできた人々からすれば……

彼は救世主と讃えられるのだろう。

そして、S国王を倒す象徴として担ぎ上げられる未来が、淡々と示されていた。


背すじが、ひやりと冷える。


このまま、被害を広げさせるわけにはいかない。

そう思考を巡らせていると、次元列車が静かな声色で問いかけてきた。


「三華月様は、これからS王国で起きている混乱を……沈めるつもりなのでしょうか」


「はい。神託に従い、混乱を鎮静化するつもりです」


「もしかして……混乱の原因である佐藤翔を、処分するつもりなのですか」


「はい。出来るだけ早く、処刑します」


その言葉に、列車の声が、わずかに震えた。


「処刑……ですか。それは、乱暴すぎませんか。佐藤翔にも……何か事情があるかと愚考します」


「すでにS王国では、彼の行動によって多くの人が職を失っています。それが無自覚だったとしても、大罪であることに変わりはありません」


「駄目人間が能力を得て、少し……はしゃいでいるだけなのではないですか!」


キィン――

鉄を弾くような硬質な音が、次元列車の音声に混じって迸った。

感情を露わにするAIは、珍しい。とはいうものの、そこまで肩入れする理由があるのだろうか。


だが、「少しはしゃいでいるだけ」で済む状況ではない。


ホログラムが展開され、映像が浮かび上がってくる。

ぽよん、と腹を揺らしながら歩く青年。佐藤翔だ。

どこか間の抜けた笑顔で、可愛らしい幼女と並んでいる。


微笑ましい光景……のはずなのに。

映像の端々に、言葉にできない違和感が滲んでいた。胸の奥がざわりと波立ち、嫌な予感だけが残る。


何を企んでいるのかしら。

いや、詮索はともかく――放置は、できない。


現在地からS王国までは約2000km。

天空狙撃を行えば、弾着までおよそ10分。


『未来視』がある。

10分後の位置と姿を、確実に視認できる私にとって、狙撃は……成立する。


呼吸が静かに整い、

鼓動がひとつ、深く沈む。


引き金に指を置く感覚が、脳裏に鮮明に浮かび上がった。


――では。

ここから、佐藤翔を狙い撃つことに致しましょう。

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