14 猛獣みたいな扱いをされている
――ここは地下第4階層。
地上の森よりもなお豊かで、にもかかわらず、どこか現実から切り離されたような、怪異じみた静謐が支配する空間だった。
一帯の中心には巨大な地下湖が横たわり、その水面を見下ろすように、天井一面へ散在した鉱石群が白く輝いている。
湖畔沿いに延びているのは、踏み固められた土の道。
魔物の気配が、ない。
それは、ついさきほど先行パーティがこの一帯を掃討して通過した直後だからなのか。
静寂は確かにある。あるものの、それは安堵を与える静けさではない。嵐の直前に訪れる、あの不自然な無音に酷似していた。
湖の反射光の向こう。
道の先に、ふっと人影が浮かび上がる。
共闘の約束を交わしていた、指揮者パーティ――5人。
横一列に近い隊列で立ち止まり、こちらを迎えるでも拒むでもなく、ただ硬直した表情のまま、じっと観察してくる。その視線には、歓迎も警戒も、どちらとも取れない曖昧さが滲んでいた。
だが、ひとつだけ明確におかしい点がある。
防御特化型の彼らが、私達よりも先に、この第4階層へ単独で到達できるはずがない。
つまり――途中で案内役を得た。
そう考えれば、導き出される答えはひとつしかない。
忍者達。
私達の敵である、あの忍者パーティだ。
距離を詰め、10mほどまで接近したところで、強斥候がわざとらしいほど明るい声を張り上げた。
「こんにちわ……皆さんとは地下1階層で合流する約束だったと思ってたんですけど……えっと、それって、第4階層でしたっけ?」
地下湖を包んでいた静寂が、その声でぱきりと割れる。
指揮者は小さく頷いた。動きは最低限、だが表情は岩のように硬く、何かを必死に隠そうとしているのが、逆にありありと伝わってくる。
強斥候の視線が、彼らの中のひとりへと向けられた。
――“人形使い”。
先日のオリオン攻略の打ち合わせ。その最中、強斥候は見抜いていたのだ。
彼が密かに、固有スキルを展開していたことを。
『COMMUNICATION』。
複数の人形を媒体に、遠隔で会話を行うスキル。聞き取った音声を、そのまま別の人形へ伝播させる。
つまり――私達が交わしていた会話は、すべて忍者側に筒抜けであったのだ。
指揮者達と忍者達が、裏で繋がっていた。
その事実は、もはや否定の余地がない。
質問をかわす指揮者の態度を見て、強斥候は挑発的な笑みを浮かべる。
「もしかして、忍者に命令されて、ここで僕達を待ち伏せしてるんすか?」
指揮者は静かに、しかし整いすぎた口調で答えた。
「我々は、忍者さんの副官を務める重戦士に、『足手まといになるので最下層へは付いてこなくていい』と言われました」
「……つまり、僕達を妨害するつもりはないってことですか?」
「もちろん妨害などいたしません。差し出がましいお願いではありますが、私達も一緒に最下層へ同行させてもらえないでしょうか」
忍者達から見れば、4位の指揮者パーティは、ただの荷物に近い存在だったのだろう。
だから捨てられた。
捨てられたからこそ、今、必死に私達へ縋っている――そう解釈するのが自然だった。
実際、美人賢者の評価も、ほぼ同じだ。
戦力としては計算に入れていない。
とはいうものの、敵に回って妨害されるよりは同行させた方がマシ。その程度の価値は認めている。
ただ、それだけの存在。
その冷たい事実は、地下湖の水底へ沈む石のように、ひっそりと、しかし確実に、この場の空気を重くしていった。
————
最下層。
そこは、天井も、壁も、地面さえも、限界まで圧縮された岩盤だけで形づくられた、巨大な“石の胎内”だった。
空間そのものが内側へ閉じ、無音の鼓動を刻んでいるかのような、息の詰まる異質さが漂っている。
光源と呼べるものは、どこにも見当たらない。
それなのに視界は、昼間のように鮮明だ。
岩肌そのものが淡い光を放ち、ひとつひとつが生物の細胞のように、ゆっくりと明滅している。
まるでこの最下層そのものが、生き物の体内なのか――そんな錯覚を覚える光景だった。
着地した岩場は天井こそ高いものの、第4層と比べれば、不自然なほど狭く、閉じた空洞となっている。
湿り気のあるはずの迷宮最深部なのに、鼻を刺す腐臭も、重たい湿気もない。
むしろ乾いた空気が、喉へ吸い込まれるたび、心地よさすら覚えるほどだ。
ここが迷宮の底だとは、にわかには信じがたい静謐さだった。
というものの、その静けさは、長くは続かない。
奥へ進むにつれ、岩場はゆるやかに落ち込む斜面となり――その先から、
「ガァンッ!」
「グオォォォ!!」
岩盤そのものを震わせる戦闘音が、低い地鳴りとなって押し寄せてきた。
耳で聞く音ではない。胸板を、内側から叩き揺らすような振動だ。距離は、かなり近い。
先頭を行く勇者が、その緊張を破るように断崖の縁へ駆け寄り、不意に息を呑んだ声で叫ぶ。
「――あそこで忍者達が、ミノタウロスと戦闘をしているぞ!」
視界が、一気に開けた。
高台から最下層中央を見下ろすと、そこには巨大な影が、暴風のように暴れ回っている。
体長は3mを優に超える、筋肉と獣性の塊。
牛の頭を持ち、怒りを煮え立たせた咆哮が、稲妻のように空気を引き裂く。
ドン、と足を踏み鳴らすだけで、地面がびりりと震えた。
――迷宮主、ミノタウロス。
その周囲を取り囲んでいるのは、複数の忍者達と、B級3位パーティ。
闇と光が交差するかのような高速戦闘が、間断なく繰り返されていた。
忍者達は、まるで事前に何百回もシミュレーションを重ねてきたかのように、位置を寸分違わず切り替えながら動いている。
前へ、横へ、影へ。
攻撃と回避、その切り替えに一切の無駄がない。
彼らの動きは、精密に時を刻む歯車――あるいは時計の針のようで、狂いというものが存在しなかった。
対するミノタウロスが振るう巨大な大斧は、もはや「武器」というより“塊”だ。
振るたび、ブォン、と空気が悲鳴を上げ、衝撃の余波がこちらの頬を叩く。
刃が空を裂く軌跡は白く光り、ただ眺めているだけで背筋が粟立つ。
あれが、A級迷宮の支配者――疑いようもない。
戦況だけを切り取るなら、優勢なのは忍者達である。
重戦士が最前線で大斧の一撃を正面から受け止め、その影に忍者が滑り込み、背後から急所を狙う。
隙を作り、突き刺し、押し切る。
無理のない、堅実そのものの連携だ。
後方では魔導士が長い詠唱に入り、後衛は重戦士の補助に徹している。
ミノタウロスの傷はまだ浅い。とはいうものの、それは戦闘が始まってから時間が経っていないだけの話だろう。
――その均衡が、唐突に軋んだ。
ミノタウロスの斬撃を、重戦士が受け止めた瞬間。
「ギャァンッ!!」
鋭すぎる金属音が空気を引き裂き、重戦士の苦悶が重なって響いた。
斧は重い。
いや、そんな言葉では足りない。
次元が違うのだ。
“防いだ”というより、“押し流された”という表現が正しい。
ズザザッ、と重戦士の身体が地面を削りながら後退し、大地に深い跡を刻んでいく。
――その一瞬。
忍者が影から滑り出てきた。
無音、無臭、無気配。
まるで存在という概念そのものが薄まったかのような、不気味な動きだ。
背後へ現れ、深々と刀を突き立てている。
一撃で倒すには足りない。
だが確実に、体力を削る手法だった。
忍者にはすでに『SKILL_VIRUS』を撃ち込んでいる。
影使いの機能は崩壊しているはず――ものの、この圧倒的な戦闘力は何なのか。
A級魔物をここまで追い詰める姿は、常識外れとしか言いようがない。
忍者が、さらにもうひと太刀を入れた時。
隣で見ていた勇者と強斥候が、思わず声を漏らした。
「――あのミノタウロス。さすがに、もう終わりだろうか?」
「A級相当を圧倒……あいつら、マジで手がつけられないっすね」
……だが。
胸の奥で、じわりと違和感が燻るものの、その理由は分からない。言葉にもならない。
ただ――。
ミノタウロスの動きが、まったく鈍っていなかった。
傷は明らかに蓄積しているはず。
それなのに、筋肉の張りはむしろ増し、地面を蹴るたびに大気が震えている。
どうして、こんなことが起こり得るのか。
忍者が再び背後から刃を突きつけてきた。
やはりと言うか、体力を削られているはずのミノタウロスは、呻き一つ漏らさない。
大斧を振るう力が、体中から迸っていく。
勇者達の瞳に、焦燥と恐怖が交錯した。
「……これは、倒せたのか?」
「いや、耐えきっているっす。あいつ……まだ余裕がありそうではないっすか!」
「確かに。耐えきった、じゃなくて……まだ暴れ足りないって感じだぜ!」
「ほんとにA級相当なんすか、あれ……」
“タフ”などという言葉では片付かない。
再生というより、外部から絶えず力が注ぎ込まれているかのような回復速度だ。
だが、ミノタウロス自身に回復スキルはないはず。
外部からの支援も見当たらないのだが…。
それなのに――。
回復支援を受けているはずの重戦士の肩が、明らかに揺れていた。
胸は荒く上下し、汗と血に濡れた鎧が鈍く光る。
彼の体は、確実に悲鳴を上げている。
「重戦士の動き……おかしくないか?」
「息が上がってるというか……限界ギリギリっす」
「重戦士が崩れたら、一瞬で全滅だぞ」
「魔導士の詠唱が、終わったみたいっす!」
長い詠唱が終われば、次の一撃は凶悪そのもの。
空気が震え、地面が微かに隆起していく。
命中すれば、戦況をひっくり返すどころか、一撃で決着がつく――そんな威力だ。
それを察したのか、ミノタウロスは咆哮を上げ、魔導士を睨みつけ、大斧を大きく振りかぶり始めた。
“”大技“”を放つつもりなのは、誰の目にも明らかだった。
――その瞬間。
重戦士の片膝が、がくりと崩れ落ちていく。
防衛ラインが、崩壊した瞬間だ!
理由は分からないが、荒い呼吸、激しく上下する肩、その全身から滲み出る限界の兆候が、否応なく事実を突きつけてくる。
忍者が影から飛び出し、足へ刀を突き立てていた。
大技を止めるための、渾身の一撃――だが、ミノタウロスは微動だにしていない。
影すら弾き返す、得体の知れない硬度がそこにあった。
――まずい。
大斧が、地面に叩きつけられた。
——————『地走り』発動!
大地を裂き、衝撃波を走らせる悪夢の技。
「バキィィィンッ!!」
破裂するような轟音とともに、大地に亀裂が走ると、白い土煙を引き連れ、衝撃波が魔導士へ迫っていく!
次の瞬間。
魔導士の身体が、亀裂に沿って無惨に引き裂かれてしまった。
轟音と振動が最下層の空洞全体を揺らし、岩盤が波紋のように震え、砂塵が舞い、空気が焦げた匂いを帯びていた。
「ミノタウロスの奴! 魔導士の詠唱を、潰しやがった!」
「重戦士は……どうして止められなかったんだ? 何故、重戦士の方が削られてる!」
「あの大斧……ただの武器じゃない。化け物っすよ!」
――大斧?
そうだ。
違和感の正体は、それだ。
ミノタウロスが握り締めている、あの異様なまでに禍々しい大斧。
ただの武器ではない。
表層には“呪いの根”のようなものが絡みつき、複数のスキルが重層的に――付加――されている。
その真相に触れた瞬間、胸の奥が沈み込み、同時に浮き上がるような奇妙な感覚が走った。
――――スキル『真眼』が、静かに開く。
世界の色が、ひとつ塗り替えられる。
霧が剥がれ落ち、大斧だけが淡い燐光を帯びて浮かび上がる。
刃に刻まれた呪紋が、一つ、また一つと鼓動のように脈打ち始めた。
流れ込んでくる情報は、どれも致命的で、救いようがないほど凶悪。
『ライフドレイン』――体力吸収。
『起死回生』――瀕死時の異常再生。
この二つの要素が、まるで蔦のように複雑に絡み合い、深々と武器そのものへ根を張っている。
とはいうものの、一度その仕組みが視えてしまえば、驚くほど理路整然とした構造をしているのが、かえって不気味だった。
ミノタウロスの圧倒的な質量を伴う一撃。
それを重戦士が受け止めるたびに――確実に、何かが削り取られていた。
削られていたのは、鉄ではない。
体勢でも、士気でもない。
奪われていたのは、純粋な生命力そのものだった。
一撃、また一撃。
目に見えない損耗が、静かに、しかし確実に蓄積されていく。
それが積もり積もり、重戦士をゆっくり、確実に死へと追い詰めていたのだろう。
そして、理解が輪郭を持ったことで、もうひとつ腑に落ちる点があった。
ミノタウロスが、攻撃の軽い忍者達を後回しにし、真っ先に魔導士を叩き潰した理由。
あれもまた、極めて合理的な判断だったのだ。
なるほど。
あの怪物にとって、あれが最も効率的な“殺しの順序”だったというわけか。
私は、ゆっくりと視線を眼下の戦場へ戻した。
重戦士は、とうとう完全に動きを止め、膝をついた姿勢のまま沈黙している。
剣は地面に突き立てられ、兜の奥からは呼吸音すら聞こえない。
前衛は、事実上の崩壊。
その背後に晒された後衛は、文字通り丸裸だった。
倒れ伏した魔導士の周囲では、忍者達が必死に走り回り、隙を探っている。
しかし、その動きには焦燥と絶望が滲み、もはや攻め筋はほぼ断たれているように見えた。
どう見ても――
敗北は、すでに確定していたはずだ。
だが、その時。
ピン、と。
張り詰め切った空気を、鋭く断ち割るような声が戦場を貫いた。
澄み切った、凛とした声。
その一声が、沈み切った場の空気を一変させる。
「皆さん、忍者パーティを助けに行きましょう!」
美女賢者の叫びだった。
その声には、震えるほど強い意志が宿っており、迷いというものが一切感じられない。
胸の奥に、ぽっと小さな火が灯る感覚。
気づけば、私は自然と頷いていた。
勇者と強斥候は、すでに武器へ手をかけ、今にも飛び出しそうなほど前傾している。
「しゃあねぇ、行くか」
「アメリアさんが言うなら、付き合うしかないっすね」
「聖女様。私めも、ご同行してよろしいでしょうか?」
追跡者までもが視線を寄せ、賢者の声に応えるように言葉を重ねてきた。
――だが、その直後。
ぴちゃり、と。
湿った石が水面へ落ちたかのような、不快な気配が空気を冷やす。
同行していた指揮者が、まるで場の温度を下げることだけを目的としたかのような、最悪のタイミングで口を開いた。
「アメリア様。オリオンの規則では、戦闘中の横取り行為は禁止されています。アメリア様のご判断は最大限尊重いたしますが……本当に、彼等を助けられるおつもりなのですか?」
勇者と強斥候の表情が、露骨な失望と軽蔑に染まる。
珍しく――いや、初めてかもしれない。
彼らが、完全に正論側に立っている光景だった。
指揮者は、なおも言葉を続けようとした。
だが――
私は、ほんの僅かに視線を向けただけだった。
その一瞥に触れた瞬間。
彼の喉は、まるで凍りついたかのように引き攣り、膝から力が抜ける。
どさっ、と尻もちをつく音。
……しばらく、そこで反省でもしていなさい。
さて。
本題は、ミノタウロスそのものだ。
A級相当“らしい”などという、曖昧な暫定分類で片付けられる存在ではない。
『ライフドレイン』と『起死回生』をまとい、大斧を振るう怪物。
そんなものを、B級相当の勇者達がどうにかできるはずがない。
必要なのは、一撃必殺。
それも、確実に殺し切る――絶対の一射。
それを放てるのは、この場では私しかいない。
忍者達を救うため。
そして、美女賢者の心意気に応えるためにも。
前に立つのは、私の役目となる。
飛び出さんばかりの勇者達へ、私はそっと手を伸ばして制した。
「皆さん、ここは退いてください。あのミノタウロスは――私が討ち取らさせて頂きます!」
一瞬の静寂。
次いで、全員の視線が吸い寄せられる。
私は深く息を吸い、意識をさらに沈めていく。
スナイパーモードが展開され、周囲の空間が、ぎしり、と軋んだ。
空気が震え、世界が遠のく。
そして、手の中に“運命の弓”が現れてきた。
運命の矢を番え、スキル『必殺』をシンクロし、さらに、もう一度――『必殺』を重ね掛けする。
矢の周囲から、じわり、と破壊エネルギーが溢れ出し、淡い渦を巻きながら、まるで世界の重心そのものが、矢へ引き寄せられていくかのような錯覚がおとずれる。
背筋を伸ばし、呼吸を整え、
弓を、ゆっくりと――しかし確実に引き絞っていく。
――スキル『ロックオン』発動。
視界の中心に、ミノタウロスの心臓部が吸い込まれるように一致した。
指先へ伝わる弦の微細な震え。
臨界点が訪れたことを、確信する。
狙い撃たせてもらいます。
―――――――――――CRITICAL_SHOOT
矢は、世界から“消えた”。
音速の壁など存在しないかのように、無音のまま加速していく。
通過した空間には、真空じみた渦が生まれ、引き裂かれた空気が、ゴウ、と竜巻のように後を追う。
極限まで研ぎ澄まされたジャイロ回転。
それは、ミノタウロスの巨体を、まるで紙細工のように貫通し、そのまま背後の岩盤までも粉砕した。
ドンッ――!
爆煙が巻き上がり、砕かれた岩片が衝撃波に乗って乱舞し、最下層の空気が狂ったように震え、地面が波打つ。
そして、一拍遅れて。
雷鳴のごとき轟音が地下世界を裂き、大地が揺れた。
煙が、ゆっくりと薄れていく。
そこには、もう“何も”残っていなかった。
ミノタウロスの影形はなく、原型どころか、肉片ひとつすら見当たらない。
怪物の存在は、戦場から痕跡ごと――完全に消滅していたのだった。
—————
規程上、今回の勝者は忍者パーティ――『オリオン』と正式に認定された。
彼等が全滅へと至る、その寸前。私が放った、ただ一撃。その一撃によって、ミノタウロスは文字通り粉砕され、塵となって消滅したためである。
結果として、勝利の称号だけが辛うじて彼等の手元へ転がり込んだ。
とはいうものの、その実態は決して胸を張れるものではなかった。栄誉というより、薄氷の上で拾い上げた“借り物の生存”。そう表現した方が、よほど実情に近いのだろう。
重戦士と魔導士の2名は、神官達による集中的な治療を受け続けていた。祈祷と治癒魔法が途切れることなく重ねられ、肉体そのものは、いずれ回復するはずだ。
だが――冒険者として、再び迷宮へ戻れるかと問われれば、答えは限りなく暗い。
肉体の損傷以前に、“冒険者としての核”が、根元から折れてしまったように見えたのだから。
恐怖。絶望。敗北の記憶。
それらが深く刻み込まれた瞳は、もはや刃を向ける者のものではなかった。
忍者達もまた、仲間である『影使い』の異常に、隠しきれない怯えを滲ませていた。
これは、ほぼ確定している。
――『SKILL_VIRUS』の影響だろう。
影が影である、その根本を歪ませ、存在そのものを侵食する異常。
それに曝され、生き残ったとしても、なお正常でいられる者がどれほどいるというのか。彼の影は、確かに“おかしかった”。
さて。
問題は、ミノタウロスが携えていた、あの大斧である。
先ほどの激戦で、あれがどれほど濃密な悪意と殺意を内包していたか、私は嫌というほど理解している。振るわれるたび、空気が裂け、命そのものを刈り取るためだけに存在する刃だった。
B級3位の冒険者が、いかにも当然といった態度で宣言した。
「これは俺がもらう」
……だが。
あれほどの凶器を、そのまま“野放し”にするのは、本当に妥当なのか。
とはいうものの、正直なところを言えば、放置したとしても私に明確な損はない。そう言い切りかけてもいた、その瞬間だった。
――ごとり。
頭蓋の底へ、重く、硬質な何かが落ちてくる。
思考を叩き、魂を震わせる衝撃。
神託である。
――――――――――『ミノタウロスの斧を破壊せよ』
YES_MAIN_GOD。
思わず、口元が緩む。あぁ、なんという僥倖なのだろうか。
こんな場面で、信仰心を稼げるとは。まさに神の慈悲。ありがたさが、じんわりと胸をくすぐってくる。
大斧の持ち主へと近寄った、その時。
思わぬ光景が、視界へ飛び込んできた。
美女賢者アメリア。
彼女は怒りの頂点で、表情という表情を完全に決壊させていた。まるで噴火寸前の火山。今にも爆ぜ、周囲を焼き尽くしそうな気配だ。
追跡者が、所属する3位のパーティメンバーから、不満をぶつけられた挙げ句、人格否定となる言葉を叩きつけられたところを、目の当たりにしたからである。
彼女の堪忍袋は、すでに跡形もなく吹き飛んでいた。
そこへ、勇者と強斥候までもが参戦する。
場の空気は急激に張り詰め、もはや喧嘩という枠を超え、局地的な戦争の様相すら帯び始めていた。
うむ。実にいい光景だ。
人が罵り合う姿は、見ていて楽しい。
ここで私が割って入れば、すべては一瞬で収束する。
今の私は観客であるべきだ。
争いは続けてもらって構わない。
むしろ、続けて下さい。
私が必要としているのは、ただひとつ。
――あの大斧だけなのだから。
「喧嘩は、そのまま続けて構いません。と言いますか、どうぞ続けて下さい。――その大斧ですが、私に譲っていただけますか?」
静かな声だった。
だが次の瞬間。
「ふざけんな! 絶対に駄目だ! これは俺たちの獲物だ、渡せるわけがない!」
……今。
今この瞬間、この男は――私に、喧嘩を売ったのだろうか。
聖女に向かって、その口の利き方。
理解不能どころか、世界の理そのものを、根本から誤解しているとしか思えない。
““絶望””という言葉の意味を、その身に叩き込んでやろう!
空気が、びり、と震えた。
最下層の澄んだ大気が軋みを上げ、きぃ、と悲鳴を上げる。
気温が、みるみるうちに下降していく。
精神力の弱い者たちは、膝から崩れ落ちた。
視界が白く染まり、意識が遠のいていく。
先ほどまで怒りで爆発寸前だった美女賢者ですら、泣きそうな顔で私に抱きつき、必死に宥めようとしていた。
「三華月様、駄目です! STOPです、お願いです!」
勇者の必死の叫びが飛ぶ。
「アメリア! 三華月から離れろ、巻き添えになるぞ!」
……私を猛獣扱いしているのは、なぜなのかしら。
いや、気のせいではない。むしろ――正しい認識とすら言えた。
私の逆鱗に触れ、完全に硬直していたB級3位の冒険者たちは、ついに観念したのだろう。
がたがたと震える手で、大斧を差し出してきた。
受け取った私は。
その場で、即座に――
ぐしゃり、と。
大斧を粉砕した。
神託は無事達成。
信仰心も、しっかりと稼がせてもらった。
—————
迷宮主が消え去った最下層には、柔らかく、澄んだ風が流れ込んでいた。
魔物の気配は一切なく、この場所が当面、静かな安息地として機能することは疑いようもない。
周囲を見渡す。
そこに、誰の姿もなかった。
美女賢者たちの一行は地上へ戻した。
この階層に残っているのは――私ひとりだけ。
ふと、思考が深く、静かに沈んでいく。
――ミノタウロスの大斧は、いったい“誰”が造ったのだろう。
その答えは、さらに深く潜れば得られるかもしれない。
通常、A級迷宮の最下層は地下5階。
常識として、それ以上の階層は“存在しない”はずだった。
だが。
――――――――――スキル『真眼』が告げていた。
そこには、本来あるはずのない“階段”が。
地底のさらに奥――地下6階へと続く、黒い奈落の穴が。
まるでこちらを窺い返すかのように。
冷ややかに、静かに、口を開いていた。
そう。
S級迷宮の証である、地下6階へ繋がる階段を。
私は、見つけてしまっていたのだった。




