12 土下座をしているが、実は…
抜けるように澄み切った青空が広がっていた。まるで厚く磨き上げられたガラスの天蓋の向こう側へ、果てなど存在しないと言わんばかりに、どこまでも、どこまでも続いている。そこをゆったりと流れていく白雲は、絵筆で大気に溶かし込んだかのように輪郭が柔らかく、朝の静寂と、これから訪れる狂騒の狭間を漂っていた。
空気には、まだ夜明けのひんやりとした匂いが残っている。肺いっぱいに吸い込むと、冷気が肌を撫でるように心地よく……とはいうものの、太陽はすでに鋭さを孕んだ光を放ち始めていた。この分だと、日中には容易く30度を超えてくるのではないか。そんな予感が、じわりと背中に張り付いて離れない。
オリオンの開始時刻が、刻一刻と迫るにつれ。
柵の向こうに広がる大広場は、黒山のような群衆で埋め尽くされていった。彼らは我々の姿を探すかのように、全身を使って手を振り、声を張り上げ、興奮を抑えきれずに前後へ、左右へと揺れ動いている。その熱量は、夏の煩わしい虫の鳴き声など完全に飲み込み、押し潰し、まるで大地そのものを震わせるかのようだった。壁越しに伝わる、びりびりとした振動が、確かに足裏に届いている。
帝都の賭博場では、『オリオン』という大掛かりな賭け興行が催されている。どうやら2番人気である私たちに賭けた連中が、こぞってこの広場へ詰めかけているらしい。
……とはいえ、だ。
その狂騒と熱気の只中にありながら、私はふと、胸の奥で立ち止まってしまう。
――私は、どうしてここに立っているのだろうか。
忍者へ復讐するために、美人賢者パーティへ加入した。
確かに、それが始まりだったはずだ。
けれど今となっては、その動機はほとんど色褪せている。砂嵐に晒された焚き火が、じゅう……じゅう……と音を立てながら消えていくように、復讐心は静かに、しかし確実に萎んでしまった。気づけば、そこに残っているのは、冷え切った灰ばかりだったのかもしれない。オリオンへ参加する理由を見失った私は、テンションを上げまくっている3名とは裏腹に、ただひとり「消化試合」という言葉そのものの気分に沈んでいた。
とはいうものの、今さらパーティを抜けるわけにもいかず、惰性のまま彼らと行動を共にしている……それが、今の私の立ち位置だった。
帝都の地下には、100万km²を超えるという、途方もない規模の迷宮が広がっている。最初にその数字を聞いたとき、正直に言って、耳を疑った。地下1階層へ降りるための階段は帝都各地に点在し、B級4位以内の参加者は、それぞれ別々の階段から入場しなければならないという、やけに厳密な規則が定められている。ゆえに私たちは、この階段を管理する建物の中で、開始時刻を待っているというわけだ。
室内へ視線を戻す。
オリオン管理局の職員が、神経質そうに時計の針を見つめていた。緊張しているのだろう、肩がわずかに上下している。美人賢者は椅子に腰掛け、静かに目を閉じて深い呼吸を繰り返していた。一方、勇者は落ち着きの壊れたオオカミのように、室内を行ったり来たりと歩き回っている。強斥候はというと、開始30分前に手渡されたA級迷宮の座標MAPを、鋭い眼差しで睨みつけ、必死に記憶へ刻み込んでいた。
舞台となる迷宮が直前まで明かされない。
それこそが、オリオン特有の張り詰めた緊張感であり、室内の空気を重く満たしている。
A級迷宮は、通常5層構造だ。
最下層へ至るルートは無数に分岐しており、どの道を選ぶかは斥候の判断に全面的に委ねられる。その選択ひとつが、オリオンの勝敗を左右すると言っても過言ではない。外では、広場の群衆が巨大な声量でカウントダウンを始めており、その重低音が、どん、どん、と床板を震わせていた。
そして――
キルド職員が時計を一瞥し、短く告げる。
「『オリオン』の開始時刻です。どうかお気をつけていってください」
「待ちくたびれたぜ!」
勇者が獣じみたギラつく目で叫び、強斥候と一瞬だけ視線をぶつけ合う。その直後、約束していた隊列――先頭が強斥候、最後尾が勇者――など完全に忘れたかのように、2人そろって地下迷宮への階段へ突っ込んでいった。
ドドド、と足音が階段に吸い込まれていく。
美人賢者に続き、私も階段を降りかけた、そのときだ。
奥から、2人の声が響いてくる。
「強斥候。最短ルートで頼む」
「お任せください。MAP情報は完全に頭へ叩き込み済みです」
「敵パーティからの妨害にも気を配ってくれよ?」
オリオンの真骨頂は、『共闘』と『妨害』にある。
他パーティと協力すれば探索の負担は軽くなるし、余った斥候を使って相手の行動を妨害することも可能だ。対人攻撃は禁止されているものの、妨害行為はグレー……いや、実質的には黙認された戦術と言っていい。
開始前、指揮者から共闘の打診があり、地下1階層での合流ポイントまで決めていた。
だが、オリオン開始1時間前。
私は、美人賢者と勇者に告げた。
――指揮者とは合流せず、単独で最下層を目指しましょう、と。
そう。それは指揮者パーティからの申し出を無視するということだ。
階段を抜けた先には、地下とは到底思えない光景が広がっていた。
鬱蒼とした森林地帯。澄み切った空気が胸いっぱいに流れ込み、木々は光源不明の淡い輝きを受けて、まるで地上世界のように葉を揺らしている。地下1階層には無数の迷宮が存在し、それぞれに迷宮主が棲むという。古代人が、なぜ帝都の地下にこれほどの迷宮を築いたのか。世界の記憶――アーカイブを持つ私ですら、その理由は分かりえない。
とはいうものの、今は謎解きが目的ではない。
1層に出現する魔物はF級が大半で、階層を下るごとに危険度は跳ね上がっていく。
そんな中、先頭でやたらと張り切っていた勇者が、突然こちらを振り返り、吠えるように言った。
「最速で最下層まで駆け抜けるぞ。……いや、訂正だ。三華月。最速で最下層へ突き進んでくれ。背後は俺たちに任せろ。頼んだぜ!」
……ただ後ろに付いて行く、というだけの意味を、なぜか英雄譚めいた言い回しに変換し、“背後は任せろ”などと宣言したらしい。
その勇者の背中越しに、美人賢者が困ったように、申し訳なさそうに、ぺこりと小さく頭を下げている。肩がすくみ、視線が泳いでいるあたり、本心から謝っているのだろうか。それとも、勇者の暴走に慣れすぎた結果の反射行動なのか。
……うんこ勇者をぶっ飛ばすのは、また今度にしておきましょうか。
――――
地下2階層。
そこに広がっていたのは、迷宮内部という前提を疑いたくなるほどの、途方もなく広大な砂漠地帯だった。
視界の先には、地平線のような錯覚すら覚える砂のうねりが連なり、その海原の各所から、天井近くまで突き立つ岩場が、まるで石の塔のように隆起している。
それらは無秩序に配置されているようでいて、進路を巧妙に分断し、自然と迷路めいた地形を形成していた。
高くそびえる天井には、幾何学模様の石板群が貼りつくように浮かび、それらが昼陽を模した白い光を降り注がせている。影は薄く、全体としては明るい。
――というものの、この光景を見ていると、ここが迷宮の内部であるという現実感が、じわじわと希薄になっていく。
だが、幻想に浸る余裕など、長くは続かない。
乾いた風が吹き抜けるたび、ざぁ……と砂塵が舞い上がり、視界が刻一刻と揺らぐ。
そのたびに、光と影の境界が歪み、何かがそこに“混ざり込む”ような錯覚を覚えさせるのだ。
敵意。
あるいは、殺気。
そんな気配が、砂と空気の狭間に溶け込んでいるようで、どうにも落ち着かない。
私は《運命の弓》を連射モードで召喚し、神経を研ぎ澄ませていく。
砂の下から、わずかでも異変があれば――その瞬間を逃さず、矢を放っていた。
ズンッ、ズシュッ、と鈍い振動。
砂を割って現れかけた魔物の頭部を、矢が正確に射抜いていく。
D級魔物とはいえ、砂中からの急襲は油断ならない。
とはいうものの、私にとっては難敵というほどではない。
しかし、視界が遮られやすいこの環境では、勇者たちにとって致命的になりかねないのも事実であった。
そんな緊張感の漂う中で、勇者が――本当に珍しく、筋の通ったことを口にしてきた。
「ここは密集陣形で進むぞ。アメリア……美人賢者を守りつつ、周囲を警戒しながら前進するぜ」
ごく稀に。
本当にごく稀にだが、彼はB級冒険者らしい、まともな判断を下すことがある。
どうやら今が、その奇跡的な一瞬だったらしい。
――その時だった。
前列を進んでいた強斥候が、不意に足を止めた。
すっと手を上げ、無言で静止を命じる。その仕草には、乾いた砂の空気よりも濃密な緊張が滲んでいた。
彼の視線の先を追う。
だが、そこにあるのは、砂地と岩影だけだ。
それでも分かる。近くの砂中に潜む魔物とは、明らかに質の違う“何か”が、空気に混ざっている。
……これは。
もっと厄介な、人の意志を伴った気配だった。
「空気の流れが、妙に乱れてるっす。この感じ……誰かに尾行されてるかもしれないっす」
「尾行……か」
「妨害工作員が接近中、と考える方が自然っすね」
オリオン開始前から、妨害が高確率で起こるだろうとは、私も予測していた。
もし仕掛けてくるとすれば、B級3位パーティ所属の《追跡者》――榛原。
追跡能力に秀で、戦闘力も高い。
とはいうものの、本来パーティ同士の戦闘は禁止されている。
だが、この大会では“突発的な衝突”が黙認されるという、実に曖昧な取り扱いがあった。
つまり、程度にもよるが、小競り合い程度なら問題にならない……という解釈が成り立つのだ。
「予定どおり、私が出向いて対応しましょう。皆さんは、ここで待機なさっていて下さい」
妨害の兆候が見えた場合、私が単独で対処する。
それが、事前に決めていた取り決めだった。
強斥候は索敵向きだが、正面戦闘には限界がある。
勇者と美人賢者は機動力が低く、支援が必要な立場だ。
結局のところ、消去法的に、私が動くしかないという結論になる。
本来、岩場が乱立し、死角の多いこの地形は、弓系JOBには不向きという評価が一般的。
――だがしかし、暗殺系スキルを多く習得している私にとっては、むしろ得意分野とも言えた。
……のだが。
なぜか、勇者と強斥候は、楽しそうに笑い出していた。
「狩人なのに、こういう見通し最悪な地形が大好物って……三華月って、いつも裏の裏をかくよな」
「いやいや、それ裏の裏なら“表”に戻ってるっすよ」
「なるほどな」
「「ゲラゲラゲラ」」
……緊張感というものが、完全に行方不明だった。
強斥候から伝えられた“尾行者”の位置情報をもとに、私は岩場へ向かって《跳躍》を繰り返す。
同時にスキル《隠密》を展開し、岩肌や砂景と一体化するように気配を沈めていく。
ザッ、ザッ、と砂を蹴る音すら意識の外へ追いやり、見通しのいい岩場の頂から、尾行者の影を探す。
……やはり、姿は見えない。
榛原も《隠密》を使っているのだろう。
それは予測どおりであり、追跡者としては至極真っ当な選択だ。
私は索敵スキルを持たない。
とはいうものの、手段が皆無なわけではなかった。
《隠密》を使っていようとも、人が砂の上を歩けば、足跡は必ず残る。
それは、見落としてはならない、確かな情報なのだ。
――そして。
あそこだ。
砂地に、くっきりと刻まれた、新しい足跡。
魔物のものではない。
歩幅、踏み込みの深さから察するに、年齢は20歳前後。身長は160~170cm。
聞いていた追跡者・榛原の情報と、ぴたりと一致している。
私は岩場の縁に立った。
胸の内で一度だけ息を整え、感覚を研ぎ澄ませる。
乾いた空気の微かな震え。
砂粒が転がる、かすかな音。
そこに混じる、敵意の揺らぎ。
すべてが、一点へと収束していく。
そして私は、砂地へ向けて――音もなく、しかし確実に、飛び降りた。
――――
20mほど先。
夜気が、しんしんと肌を刺す中で、《隠密》を解いた黒装束の男がいた。
地を抉るように腰を沈め、刀を水平に構えている。
全身は黒布に包まれ、顔の輪郭すら隠されている――はずなのに。
それでも、分かってしまう。
低めの身長。
丸みを帯びた胴回り。
布越しでも隠しきれない、中年特有の、あの“たるみ”。
視線を向けるだけで、体型の情報が嫌でも飛び込んでくる。
聞かされていた特徴と一致する。
追跡者・榛原。
本人で間違いないのだろう。
……とはいうものの。
実際にこうして姿を見ると、“闇の刺客”というより、商店街の特売イベントでコントを披露していそうな芸人にしか見えないのは、気のせいなのか。
黒装束のせいで、余計に滑稽さが増している気もするのだった。
私は一定の間合いを保ったまま、静かに声を投げかける。
「あなたは追跡者の榛原ですね。私たちを尾行していましたが、御用があれば伺います」
静まり返った夜気の中、その言葉は不思議なほど澄んで響いた。
返答は、すぐには来ない。
黒装束の男。その口元らしき影が、闇の中でにたりと歪む。
まるで獲物を前にした肉食獣のような、いやらしい笑みだった。
「お前が三華月という聖女か……こうして間近で見ると、意外と愛らしいな」
……意外と。
“ものすごく”でも“非常に”でもなく、あくまで意外と、なのか。
別にいい。美的評価を強制する趣味はない。
とはいうものの、今この場、この瞬間に口にする言葉としては、正気を疑うしかない。
それ以上に問題なのは──
この黒装束の中年が、私の問いに答える意志を、欠片ほども見せていない点である。
いや、そもそもだ。
これは“無視している”のではなく、“会話が成立していない”可能性すらあるのではないか。
念のため、私は一度息を整え、言葉を変えて問い直す。
「もう一度伺います。尾行していた理由を聞きたいのです。何を目的としていたのでしょう?」
「俺は既に刀を抜いている。……なぜお前は武器を構えない?」
質問に、質問が返ってきた。
噛み合っていない。致命的なまでに。
これは“話す気がない”というより、“話の意味を理解していない”疑惑が、かなり濃厚だ。
おそらく後者だろう。
とはいえ、断定するには少し早い。
私は慈悲深い聖女なので、あと一段階だけ、相手をしてあげることにした。
「構えない理由は単純です。私にとって追跡者は雑魚だからです」
空気が、ぴしりと凍りついた。
「過剰な自信と余裕は隙となり、足元をすくわれるぞ」
「『足元』ではなく『足下』です。そして“足下をすくう”とは、相手の隙を突いて失敗させるという意味。私は追跡者の隙を突いていません。……つまり、言葉の使い方が間違っています」
男の眉が、不快そうに歪む。
「ふん……なんだそれ。話が込み入ってて分からん。あれだろ、屁理屈ばかりで実戦ができない奴っているよな。お前は、その典型のようだな」
──ああ、なるほど。
ここでようやく、完全に理解した。
これは“噛み合わない”のではない。
本当に、純粋に、お馬鹿なのだ。
同族殺しは信仰心に影響が出る。
正当防衛は許容されるものの、過剰防衛は処罰対象になり得る。
……そう考えると、ここは。
半殺しに留めておくのが、妥当なところか。
「追跡者、随分とお馬鹿なようですね。私はお馬鹿とは会話しない主義ですが……ここまで粘った敬意として、少しは評価していただけますでしょうか?」
「俺を舐めるな」
出た。その言葉。
お馬鹿が必ず口にする“定番フレーズランキング”、堂々の1位。
はい、確定。
追跡者は、お馬鹿と認定しました。
男の重心が、じわりと前に移動する。
地を踏みしめる足。沈み込む腰。踏み込みのタメだ。
そして、これまた定番フレーズその2。
「……俺の実力、見せてやる」
次の瞬間。
男が一気に距離を詰めてきた。
踏み込み、足運び、斬撃の軌道。
洗練は……されている。確かに、されてはいる。
……だが、遅い。
驚くほどに、致命的なまでに遅い。
その瞬間だった。
――追跡者の姿が、ブレていく。
揺らぎ、残像を引き、幾つにも割れる。
シュッ、シュッ、と空気を裂く音。
視界いっぱいに広がる黒装束。
『分身の術』か。
なかなか見応えのある大道芸である。
とはいうものの、既にスキル『ロックオン』で本体の位置は完全に捕捉済みだ。
“分身”で運命の矢を避けられるのか、試してみる価値はあるだろう。
私は後方へ跳躍し、ふわりと距離を取り、視線は一瞬たりとも逸らさず、本体を捉えたまま。
呼吸を合わせ、弓を呼び出し、弦を引き絞っていく。
運命の矢をリロードし、意図を込め、光が、きゅぅぅ、と収束する。
次の瞬間、
――――S H O O T。
音を置き去りにする一矢が、一直線に追跡者の本体を射抜いた。
……はずだった。
だが、命中の刹那。
ボンッ、という鈍い音とともに、男の身体は丸太へと変じ、地面を転がった。
ほう。
『身代わりの術』まで使えるとは、なかなか芸達者である。
しかし、『ロックオン』は外れていない。
私は次々と運命の矢をリロードし、射撃姿勢を崩さず、連射をしていく。
弦が鳴り、矢が走り、空気が震えていた。
追跡者は焦り、『分身』『身代わり』を乱発しながら、必死に距離を詰めようとしてくる。
ザッ、ザッ、と荒い足音。乱れる呼吸。
だが──無駄だ。
私は『跳躍』で間合いを外し、『瞬足』で軌跡を乱し、常に射程外となる。
そう。追跡者が、触れられる未来は、永遠に存在しない。
つまり、この戦闘は既に決着している。
追跡者は、このまま延々となぶられるだけの運命にあるのだ。
その現実に、ようやく追いついたのだろう。
私が再び運命の矢をチャージした瞬間、追跡者は絶叫した。
「待って! 待って! 本当に、殺さないでくれ!」
————
黒装束の追跡者は、私の目の前で全身全霊の土下座をしていた。
額が地面に叩きつけられ、今にも埋まりそうな勢いである。
……知っている。
このパターンだ。
土下座で油断を誘い、一瞬の隙を突いて斬りかかる。
実に、よくある。
W E L C O M E。
歓迎しよう。
追跡者は震える声で、必死に降参を叫ぶ。
「降参です! 本当に、申し訳ありません! 聖女様、どうか、どうか命だけは!」
「遠慮なさらず、どうぞ。さぁ、ご自由に」
「えっ……遠慮? あ、あの……どういう意味ですか?」
「私は斬られてもかまいません。覚悟はもうできています。ほら、遠慮なくどうぞ」
「えっ……いや、その……?」
「とぼけなくても結構。油断させて斬るおつもりなのでしょう? はい、ちゃんとお付き合いします。片手くらいなら、差し上げますよ」
卑怯な手段で私を傷つければ──
その瞬間、神は動くかもしれない。
“追跡者を処刑せよ”という神託が、降りる可能性がある。
何となくだが、あと一押しで神託が来る気がした。
私は、信仰心のためなら、多少痛い思いをする程度、我慢ができる聖女なのだ。
追跡者は青ざめ、黒装束が汗で濡れるほど怯え始めていた。
その瞳は、怪物を見るかのように震えながら、私を映している。
「……本当に、申し訳ありませんでした……まさか聖女様が……ここまで危険な方だとは……思いも……よりませんでした……」
その言葉が、夜の静寂に溶けていった。




