ペンギンvsイムセティ
頭上を仰いだ瞬間、空はすでに沈んでいた。
暗灰色の雲が何層にも折り重なり、まるで天そのものが重力を持ったかのように、じわじわと世界を押し潰そうとしている。雲の綻びからは、糸のように細い雨が途切れることなく落ち、しとしと、しとしとと海面を叩いていた。
湿りきった空気が肌にまとわりつき、鼻腔には鉄を思わせる匂いが微かに混じる。緊張――そう呼ぶほかない気配が、音もなく辺りを満たしていく。重苦しい静寂そのものが、すでに戦いの序曲を奏で始めているのかもしれない。
その空の下で。
力を失い、明らかに疲弊したイムセティと、ペンギンが操る巨大旗艦ポラリスとの戦いは、静かに、しかし確実に幕を開けていた。
海面は鉛を流し込んだかのように鈍く光り、雨粒が落ちるたび、ぽつり、ぽつりと小さな波紋が広がる。戦場は、時が止まったかのような異質な静けさに包まれていた。音がないのではない。音が、息を潜めているのだ。
雪のように白い羽毛を持ち、巨大な翼を広げて鳥の姿へと変じたイムセティ。その距離は、おおよそ1km。
海面すれすれの高度を保ったまま、滑るように旋回し、ポラリスとの間合いを慎重に測っている。翼の角度がわずかに変わるたび、雨粒がまとわりつき、尾の先から細い光の筋となって空気中へほどけていった。
速度は目測で約200km。
……遅い。
正直、拍子抜けするほどだった。ここまで力が落ちているなら、月の加護がなくとも、運命の弓で容易に仕留められるのではないか。そう考えずにはいられない。
ペンギンがかつて口にしていた“下級神の雑魚”という評価も、こうして実物を前にすると、意外と的外れではないのかもしれない。
甲板中央で指揮を執るペンギンは、いつも以上に得意げな表情を浮かべていた。
羽根付きの指揮棒を手に、まるでオーケストラの指揮者のように軽やかに振るう。その動きに呼応して、主砲の砲塔や機関砲がガチリ、ギギ、と金属音を響かせながら滑らかに駆動する。4本のマストに張られた帆も、微かな風を受けてぱたぱたと角度を変えた。
ポラリス全体が、ペンギンを中心に呼吸し、律動し、ひとつの音楽を奏でる巨大な管弦楽のようである。
「これより、この特級下僕であり、四天王の一翼を担うこのペンギンが、くそ生意気な三流神のクソ雑魚を、三華月様の世界から排除させて頂きます」
声を聞くだけで分かる。完全に自己陶酔している。
“私の世界”と断言した部分には、軽く異議を唱えたい気もした。とはいうものの、今ここで訂正すれば、余計な手間が増えるのは目に見えている。心の中で流しておくのが賢明だろう。
ペンギンが指揮棒をひと振りすると、主砲と機関砲が一斉に照準を整えていく。
ガチリ。
金属が噛み合う音が足元から伝わり、船体を通して微かな振動が這い上がってくる。波を切り裂く船体の音、空気に混じる鉄と火薬の匂い。すべてが、これから始まる殺し合いの鼓動を告げていた。
ペンギンは胸を張り、指揮棒を突き出した。
「FEUER!」
次の瞬間、世界が揺れた。
砲口から噴き出す火炎が雨を蒸発させ、ドン、と腹の底に響く衝撃が全身を貫く。船体が大きく軋み、空気が裂けるような圧力が押し寄せてきた。
砲弾は雨を切り裂き、一直線に近い放物線を描いていく。
わずか1秒後――白い鳥影へと、正確に突き刺さっていった。
あの距離で、風向、湿度、空気抵抗を読み切り、一撃で命中させるとは…
さすがは最古のAIにして参賢者の一角。その演算力と判断速度は、伊達ではない。
直撃を受けたイムセティは、黒煙を引きながら高度を失い、糸の切れた凧のように墜ちていく。
遅れて、ズゥン……と深く鈍い音が、海底から響き渡った。
足元のペンギンは、さらにドヤ顔を濃くしたまま、こちらを見上げてきた。
「これは私の力量の片鱗です。浮遊都市グラングランでは三華月様にボロカスにやられましたが、実際はこれくらいのことなら余裕で可能なのです」
「さすがペンギンさん。ですが、奴はまだ元気そうですよ」
その言葉に応じるかのように、遠くの空が震えていた。
怒りの雄叫び。被弾の影響は大きいものの、イムセティの闘志はまだ消えていないらしい。悔しさと苛立ちが混じった声が、雨の向こうから響いてくる。
ペンギンは優雅に一礼するが、ドヤ顔だけは決して崩さない。
「あの三流神がこれくらいで死なないのは、最初から想定内です。三華月様のご期待に沿うべく、私がしっかり務めさせて頂くことをお約束致します」
……想定内、か。
とはいうものの、このペンギンは“想定外”に対して、どうにも弱い。かつて移動都市グラングランで戦った際も、私の予測を外れた行動に、露骨に苛立っていた。要するに――自分で予測できない事象すべてに、極端に耐性がないのだ。
確かに、七武列島近海の伐折羅海賊に備えて主砲を改造した判断は悪くない。
とはいうものの――。
「ペンギンさん。この展開がすべて想定内であったことは理解致しました」
「何ですか、その引っ掛かるような言い回しは」
「この海域の深海に潜むクラーケンへの対策も、既に想定されていたのであれば…。この旅路はもっと楽になっていたのかもしれません」
その瞬間。
パキン、と音を立てたかのように、ペンギンのドヤ顔が割れた。
目がクワッと見開かれ、驚きと苛立ちがそのまま顔に貼り付く。……ああ、怒りに変わる直前の、いつもの表情である。
案の定、声が荒くなってしまう。
「三華月様が信仰心を稼いでいる最中、自ら望んでトラブルを引き寄せる不幸体質になられたと、私は耳にしております。つまりですね、その不幸体質に巻き込まれて、このラグナロク領域に迷い込んでしまった私の立場も、少しはご理解頂きたいのです!」
大きくため息を吐き、首を左右に振るペンギン。
いやいや……ここに迷い込んだ原因は、あなたが次元の狭間を見つけて、確認もせず飛び込んだからでしょう。私の“不幸体質”は、ほぼ無関係だ。とはいうものの、自身が“トラブルそのもの”である可能性を微塵も疑わないあたり、ある意味さすがである。
その間にも、遠くでイムセティは旋回を再開し、距離を取っていた。
安全圏から、突撃の瞬間を計っているのだろう。翼を大きく振るたび、濡れた空気が震え、殺気にも似た圧迫感が、じわじわと広がっていく。
ペンギンもそれを察したのか、低く告げてきた。
「フィナーレを迎えようとしております。どうぞ、私の活躍を刮目してご覧下さい」
その言葉と同時に、イムセティの軌道が変わっていく。
旋回から、一直線へ。
――白銀の光の矢となって、ポラリスへ突進してきた。
直進する敵を迎え撃つのは、容易ではない。距離感、速度、心理的圧迫。ほんの一瞬の躊躇が、致命傷になる。
とはいうものの、ペンギンは驚くほど落ち着いていた。いや、楽しんでいるとすら思える。
指揮棒がわずかに揺れ、8門の機関砲が一斉に標的を捉えていた。
突撃するイムセティの周囲には、目に見えぬ衝撃波が生まれ、ビリビリと空気が震えていく。外壁を叩く圧力に、船体が悲鳴を上げる。直撃すれば、さすがのポラリスでも無事では済まない。
それでもペンギンは、鳥が大空へ羽ばたくかのように両腕を広げ、誇らしげに胸を張っていた。
次の瞬間、船体の周囲に光が集束し、強固な結界が展開されていく。
衝撃波がぶつかり、ぐらりと船体が揺れる。
だが、障壁がすべてを吸収し、音はくぐもり、空気だけが張り詰めていった。ほんの一瞬、時間が止まったかのようだった。
ペンギンは深く息を吸い込み、再び叫ぶ。
「FEUER!」
8門の機関砲が火を噴く。
砲弾の雨が一直線にイムセティを貫き、雨粒を引き裂き、白い翼を正確に撃ち抜いた。
バキバキ、と音を立てて翼が砕け、身体は蜂の巣のように穿たれる。
……弱い。
力を失ったとはいえ、ここまで脆い神なのか。それとも、ペンギンの実力が規格外なのか。
原型を失った影が、ふらふらと揺れながら、遠くの浮島へ沈むように落ちていった。
満足げに指揮棒を振り上げると、ポラリスは風を切って回頭し、浮島へ向かってゆっくりと進み始め、ペンギンは誇らしげに振り返ってきた。
「三華月様。それでは、三流神が我々に命乞いをするその様子を、拝見しに参りましょう」




