ラスボスの四天王とは。
見上げた空には、暗灰色の雲が幾重にも幾重にも折り重なり、縫い目ひとつ見当たらない巨大な壁となって、世界そのものを押し潰すかのように覆い尽くしていた。どこまで目を凝らしても、隙間はない。空という概念そのものが、重く、低く、息苦しく圧し掛かってくる。
その天蓋を、無理やり裂き開くように。
白い翼を、ゆるやかに――しかし確固たる意思の塊のような確実さで広げる影があった。
石像めいたその身体が、空気を押しのけ、切り裂き、音すら残さずに上昇していく。羽ばたきは静かだが、その存在感だけが異様に重い。空気が歪み、軋み、抗えぬ圧として周囲へと広がっていた。
緋色を連れ帰ろうとする、その私の前に。
異界神――イムセティが、立ちはだかっている。
漂う気配は、先ほどよりも明らかに濁っていた。
禍々しい黒い靄が奴の周囲に絡みつき、まとわりつき、見るだけで胸の奥に冷たい針を突き立てられるような錯覚を覚える。視線を向けられただけで背骨の芯がひりつき、皮膚の内側を殺意が這い回る。
もはやそれは感情ではない。殺意が“気配”として濃縮され、風よりも密度を持った脅威となって押し寄せてきているのだろう。
人だった頃の面影は、すでに一片も残っていない。
鳥へと変質したその身体は、肉と石が無理やり融合したかのような異様な質感をしており、羽ばたくたびに微細な粉塵がこぼれ落ち、淡く光る灰が宙を舞う。
ねじれた顔は、嗤っているのか、苦悶に歪んでいるのか判別がつかない。戦いを前にした高揚なのか、それとも相手を見下す癖が骨の髄まで染み付いているのか。
とはいうものの、どちらにせよ。
こちらを下に見ている――それだけは、嫌というほどはっきり伝わってきていた。
上空から攻撃し続けるのが効率的。
理屈としては正しい。事実、空を制する者が戦場を制することは多い。
とはいうものの。
私の射程は、その程度の理屈など軽く踏み潰すほど広い。
スキル『ロックオン』による捕捉はすでに完了している。イムセティがどれほど高く舞い上がろうとも、未来視を持つ私から逃げ切れる道理など存在しない。
たとえ音速で突っ込んできたとしても、迎撃の余裕は充分にある。焦りはない。状況は、こちらの掌の上だった。
……はず、だった。
だがイムセティは、ある地点で――ぴたりと上昇を止めた。
高度は、およそ20m。
一瞬、「限界まで上がったのか」と思った。だが、違う。
そのさらに上を阻むものがあった。
見えない。だが確かに存在する、空気の層。不可視の結界が、ラグナロク領域全体を覆っている。
ここへ足を踏み入れた瞬間から、私の肌に薄くまとわりついていた感覚の正体。弱り切った異界神であるイムセティでは、突破できないのだろう。
つまり――
狙われやすい、中途半端な高度に留まり続ける運命は、変わらなかったということだ。
――その時である。
静止していたイムセティの身体が、突如として小刻みに震え。
次の瞬間。
ドンッ!!!
爆音が、空を殴りつけた。
視界が白く弾け、空気が衝撃で歪む。鼓膜へと熱が叩きつけられ、遅れて内臓が揺さぶられた。
黒煙と石片を撒き散らしながら、イムセティの身体が不規則な軌道を描き、ぐらりと崩れて落下していく。重低音の轟きが、遅れて空気を震わせた。
――砲撃。
誰かが、撃ち抜いたのだ。
反射的に視線を巡らせると、浮島から約50m先。海面を割るように錨を下ろした巨大な艦影――旗艦ポラリス。その主砲の砲口から、細く白い煙が立ち昇っていた。
甲板の上。
そこにいたのは――ペンギン。
短い腕を指揮棒のように振り回し、胸を張り、全身で「完璧だっただろう」と主張するどや顔。そのままポラリスを指し示し、こちらへ来いと言わんばかりに顎をしゃくってくる。
とはいえ、『跳躍』では50mは届かない。
『壁歩』で海を渡ることもできるものの、多少の時間は必要になる。
そこで気付いた。
ペンギンの視線の先――ポラリスと浮島の中間。波間に浮かぶ、1隻のタグボート。
……つまり、あれを使えというわけか。
用意周到な奴だ。
私は軽く地を蹴り、タグボートの天板へ着地。
さらに『跳躍』。
海風を切り裂き、身体が宙を滑っていく。次の瞬間、ポラリスの甲板へと吸い込まれるように降り立った。
ザッ……と靴底が甲板を刻む音。
潮の匂いが、濃く鼻腔を刺激する。
「三華月様、お待ちしておりました」
ペンギンはどや顔を一切崩さぬまま、やたらと優雅な礼まで添えてみせた。
……お前、どこまで準備していたのかしら。本当に。
一方でイムセティは、落下の衝撃を嫌ってか、着水寸前で翼を広げ、海面すれすれで無理やり体勢を立て直していた。
羽ばたくたび、水面に多重の波紋が走り、その上へ砕けた石粉が散り、ざらざらと光を弾く。
ポラリスの主砲。
本来なら、イムセティのような存在に有効な代物ではないはずである。
とはいうものの――おかしい。
効いている。
ペンギンは誇らしげに言葉を続けた。
「三華月様。我々『無敵艦隊』が乗る旗艦ポラリスには、七武諸島に出没する海賊への対策として――古代文明の簡易型主砲を、私の手で増設いたしました」
胸を張る声音には、自信と興奮がありありと滲んでいる。
やはり……改造していたのか。しかも“簡易型”と言いながら、その威力は過剰としか言いようがない。対海賊どころか、神すら撃ち落とす気満々ではないのだろうか。
キィィィィ――ッ。
空気を裂く、金属が軋むような悲鳴。
上空では、鳥の姿のイムセティが旋回していた。怒気を黒い翼の羽根から撒き散らし、先ほど主砲の直撃を受けた翼の端は粉々に砕けている。砕片は石粉となり、風に溶け、黒い霧が尾を引いて空へ禍々しい軌跡を描いた。
それでも。
その眼光は濁らない。むしろ怒りが燃え広がり、歪んだ嘴が今にも悲鳴を絞り出すかのように震え――
ついに、怒声が大気を震わせた。
「AIごときが……神である我に歯向かうとは!
その罪は万死に値する!!」
ビリビリと刺すような殺気が肌を苛む。喉の奥が強張り、呼吸が浅くなる。
とはいうものの、ペンギンは微動だにしない。
いや、それどころか。
額には青筋が浮かび、むしろ向こう以上に怒っているように見える。
……これは、完全にキレた時の顔、なのか。
彼は上空の三流神へ向け、容赦なく怒鳴り返した。
「力も戻せていないクソ三流神のくせに!
三華月様に向かって何様のつもりだ、あァ!? お前ごとき三流神は、このペンギンが成敗してくれるわ!」
……言い過ぎである。
いや、ものの。このペンギンなら、本当にやりかねないから怖い。
「ふふん」
勝ち誇った声を漏らし、彼はくるりとこちらへ振り返ってきた。
海風に羽毛がふわりと揺れ、舞台役者のような所作で深く頭を下げるその一挙手一投足が、まるで劇のクライマックスのように鮮烈だった。
「この特級下僕ペンギンが、あの三流神を三華月様へ土下座させ、媚びへつらい、命乞いをする姿を必ずお見せいたします。その暁には――ぜひ、四天王の席へ私をお加え下さい」
誇らしげに。
堂々と。
それが当然の未来であるかのように、言い切ってみせるのだった。




