目には目を歯には歯を
明るい声と笑いが絶えず渦巻いているはずの、浮島の広場。
本来なら喧噪と活気に満ち、足音と話し声が幾重にも折り重なる場所である――はずだった。
なのに、どういうわけか。
私の周囲だけが、ぽっかりと切り取られたかのように沈み込んでいる。
足元から半径数歩。
その狭い範囲だけ、音の層が不自然なほど薄い。
遠くで続く人々のざわめきは、まるで海霧の向こうへ押し流されたかのように曖昧に滲み、視界の色彩までもが少しずつ淡く、褪せていく。
空気が、重い。
沈み込むように密度を増し、冷たい膜となって肌に絡みつく。
払いのけようとしても、べたりと張り付いたまま剝がれない。
世界の中心が、別の相へとずれ落ちたのか。
あるいは、この一帯だけ地面そのものの質量が変わってしまったのか。
そんな錯覚を覚えるほど、異様で、歪んだ静寂だった。
そして、その不自然な沈黙の核に――
私は立っている。
向かいに立つのは、古代の偶像がそのまま歩み出てきたかのような存在。
主神ホルスに仕える神、イムセティ。
彫像めいた石肌には冷たい光が走り、巨像の欠片が無理やり人の形を取っただけのようにも見える。
片膝をつき、頭を垂れ、形式ばった礼を取っている。
とはいうものの――つい先ほど、緋色を連れ去ろうとした瞬間。
その気配は一転した。
石像の静謐は砕け、獣じみた敵意がむき出しになり、私の前へと立ちはだかったのだ。
今、その存在から滲み出しているのは、生々しい血の匂い。
殺意が空気へ溶け込み、濁った影となって広がり、やがて輪郭を持つ“刃”へと変貌していく。
嫌でも、それが分かってしまう。
呼吸をひとつするたび、ざらり……と空気が震え、周囲の温度がわずかに下がる。
これから始まるものを予告する、あの独特の静かな高まり。
戦闘の直前にだけ訪れる、世界が息を潜める瞬間だった。
イムセティの無機質な顔が、パキリ、と音を立てたかのように歪む。
次の瞬間、輪郭がゆっくりと崩れ、石が肉へ、肉が獣へと、滑らかに移り変わっていく。
鋭く、攻撃的で、危ういほど凶暴な相貌。
背の奥では、ゴキッ、バキッ……と硬質な音が連鎖し、そこから純白の翼が一気に展開した。
バサァ……ッ。
羽根一枚一枚が白銀の輝きを弾き返し、広場の空気が圧に押されて震えていく。
その存在感は神々しさというより、むしろ怪物――巨大なガーゴイルを思わせる不吉さを帯びていた。
その眼差しに、迷いは欠片もない。
命令文のように明確に、はっきりと――
「緋色を置いていけ」
そう告げてきているのだ。
「三華月様。緋色という者を、連れていかれては困ります」
静かな声。
なのに、低く重たい響きが地を這い、空気そのものを震わせている。
私は一歩も退かず、真っ直ぐに返した。
「事情は分かりませんが……その者を、見殺しにするわけにはいきません」
「どうしても、連れていくおつもりですか」
「ええ。これは最後通告です。邪魔をするというのなら――排除させていただきます」
「我々が戦わなければならない理由が分かりません。人間ごとき下等生物など、どうでもいいではありませんか」
「あなたにとってはそうでしょう。ですが、緋色は私の同族です。見捨てるわけにはいきません」
イムセティの顔は感情の起伏を見せぬまま、冷徹に言葉を継いでくる。
「我には、主神ホルス様を復活させるための使命があるのです。ご理解頂けないでしょうか」
「ホルス神の復活を望むのなら、別の手段をお探しください。私からの譲歩はありません」
イムセティの説明によれば、緋色こそがホルス復活の鍵らしい。
とはいうものの、そんな神々の事情に巻き込まれる筋合いは、私にはない。
問題の核心は、まったく別のところにある。
――緋色の『フロート』は『SKILL_VIRUS』によって崩壊しつつあり、放置すれば7日後に完全消滅。
つまり、ここで置き去りにしても、イムセティへ引き渡しても。
結果は同じ。
同族殺しだ。
だから――退けない。
たとえ相手が神であっても。
私の進む道に立ち塞がるというのなら、排除する。
それだけのこと。
覚悟を静かに固めた、その瞬間。
イムセティは、ふっと息を吐いた。
獣の顔は崩れ、人の姿へと戻っていく。
だが、その落ち着いた声の奥で蠢くものは、むしろ不気味さを増していた。
「三華月様。我は、天空が雲に閉ざされている今、この状況では本来の力を発揮出来ません。
だが、それでも――この浮島の人間達なら、一瞬で殺すことなど容易なのです」
ぞくり、と背骨を冷たいものが撫でる。
「……何が言いたいのです。緋色を渡さなければ、ここにいる漂流者達を皆殺しにすると……私を脅しているのですか」
短く問う。
イムセティは、微塵の迷いもなく頷いた。
「そうです。三華月様にとって、同族であるこの浮島の人間達は――殺されたら困るのではありませんか」
無表情。
石像のように冷たい仮面。
なのに、その奥では黒い感情が濁流のごとく渦を巻き、こちらの胸にまとわりつく。逃げ場はない。
緋色を差し出せば、他の漂流者は見逃す。
あまりにも露骨な、残酷な交換条件。
1人を犠牲にして多数を救う。
数字だけを見れば、整っている理屈……なのだろうか。
とはいうものの、私に選択肢など最初から存在していない。
緋色を犠牲にする?
そんなもの、同族殺しでしかない。
私は最初から、全員を救うと決めている。
そして――それを実行する力も、持っている。
ならば、答えはただ1つ。
「人の命の重さは、数で決まるものではありません。つまり、あなたの提案は到底受け入れられない、ということです」
「クックック。神の前では、人の命など虫ケラではありませんか。虫ケラの命に重さなど無いでしょう。何でしたら今すぐ、ここにいる虫ケラ達を一瞬で抹殺してやりましょうか」
メリッ、と石の皮膚が歪むように顔が崩れ、不気味な笑みが貼り付く。
確かに、神と人間では価値観が違う。
とはいうものの、だからといって侮辱や脅迫を飲み込む義務はない。
「イムセティ。『目には目を歯には歯を』……そのことわざをご存じですか」
「相手に同等の報復を行うという例えですね」
「はい。あなたが漂流者達を殺したなら、私も“同等の報復”を与えると宣言します」
「同等の報復。我に、ですか」
「漂流者達を殺したら――あなたが復活させようとしている主神ホルスを、2度と復活できないよう冥府へ送り届けてあげましょう」
「ホルス様を冥府へ送るだと!!」
愉悦に満ちていた笑みが凍りつき、一瞬で鬼神の形相へ変わっていく。
ドンッ。
大気が破裂した。
膨張した殺気が弾丸のように放たれ、風が刃へと変わる。
さっきまで温もりを帯びていた空気が、肌を切り裂く冷気に転じていった。
「ぐっ……!」
漂流者達が次々に膝をつき、なすすべなく意識を刈り取られていく。
そして、怒号が落ちてきた。
「今、主神ホルス様と虫ケラの命が同等だと言ったか!」
大気が震え、海面が逆巻き、浮島全体が悲鳴を上げて揺れる。
……これでも天上の加護を失って“弱体化”している状態。
全力に近かったら、どうなっていたのか。考えたくもない。
とはいうものの――恐れても、行動は変わらない。
――ここで、イムセティを討つ。
私は一歩で後方へ跳び、確保した間合いで、召喚した運命の弓へ静かに矢を番える。
対してイムセティは、純白の翼を広げ――
バサァッ、と一度だけ、強く羽ばたいた。
渦のように空気が巻き上がり、その巨大な影が暗雲の錯覚を生むと、彼は上空で静止し、見下すように告げてきた。
その声には、勝者の余裕が滲んでいる。
「足場の無いこの海域で、我に戦いを挑むとは愚かとしか言いようがありません。空を飛ぶ我に勝てないという現実を――今から、教えてあげましょう」




