主人公になりたいモブ
浮島に取り残されていた300人の漂流者たちが、300m級の巨大旗艦ポラリスに現れた聖女――そして深真樹の言葉を耳にしてから、まだ1時間も経っていない。
地上世界へ帰す――。
その宣言がもたらしたのは、歓喜というには早すぎる、しかし絶望とは程遠い、奇妙な戸惑いだったのかもしれない。
喜ぶべきなのか。信じていいのか。それとも、疑うべきなのか。
判断を下せない感情が、表情の奥で揺れ、迷い、交錯する。だが、深真樹が語った“帰還までの道筋”を一言一言、最後まで聞き終えたとき――その迷いは、薄紙がはがれるように、静かに、しかし確かに消え去っていた。
地上へ戻るためには、海王生物を呼び寄せるクラーケンたちが跋扈する外洋を突破しなければならない。
その事実は、誰の胸にも等しく重くのしかかる。恐怖――それ以外の言葉が見つからないほど、心臓を締め付ける感覚である。
とはいうものの、その恐怖を押しのけるほどの希望も、同時に胸の奥で燃え始めていた。
深真樹の言葉は、その希望に確かな火を点け、揺らめきながらも、確実に漂流者たちの心の奥へと広がっていったのだろう。
結果として、浮島の空気は以前とは比べものにならないほど変化していた。
緊張感が消えたわけではない。むしろ張り詰めた糸は確かに存在している。だが、それ以上に士気が高まり、空気そのものに弾力が生まれていた。
50m先、沖合に停泊する旗艦ポラリスへ医療物資を取りに行くため、タグボートに乗り込もうとする漂流者たちの声も自然と弾み、甲板には「ははっ」「よし、行くぞ」と軽やかな笑い声が広がっていく。
その中心にいたのは、深真樹の“緋色の嫁”と紹介された2人の少女だった。
まだ幼さの残る顔立ちであるものの、動きには無駄がなく、指示を飛ばす声には芯がある。
必要な物資を次々と確認し、数を間違えることなく手渡していく手際は、小柄な体躯とは裏腹に、まるで熟練の指揮官のようだった。
島には、服が擦り切れ、ぼろぼろになった者も少なくない。
それでも、あちこちから明るい声が途切れることはなく、視線には確かな光が宿っている。
灰色の雲に覆われた空とは対照的に、島全体はどこか祭りの前夜のような、高揚と期待に包まれていた。
――だが。
その活気の中に、ひとつだけ、ぽつりと異質な気配が混ざっていた。
緋色。
旗艦ポラリスには乗らず、浮島に残ることを選んだ青年だ。
人々が忙しく動き回る中、彼だけは輪の外で膝を抱え、背を丸めて座り込んでいた。
その小さく縮こまった背中から漂うのは、拗ね、迷い、諦め、そして未練。
複雑に絡み合った感情の気配が、重く、湿った空気となって滲み出ている。
その背後へ、深真樹が音も立てずに近づく。
雨と海の湿った匂いが混じる中、彼女の声だけが、はっきりと空間を切り取った。
「緋色。どうして一人でここに残るのですか。理由を教えて下さい」
しとしとと降り続く雨音に溶け込むように、その声は柔らかく、穏やかだった。
とはいうものの、その奥には隠しきれない心配と温度があり、微かに震える感情が確かに伝わってくる。
だが緋色は、その気遣いを受け止める余裕すらなく、雨に煙る空の彼方をぼんやりと見つめていた。
視線は定まらず、焦点は揺れ、聞いてはいるが、意味は届かない。
そんな空虚さが、彼の周囲に重く漂っている。
周囲を見渡しても、彼に目を向ける者は深真樹以外にいなかった。
まるで「もうあの人は自分たちとは関係ない」と、集団の意識が無言の線を引いたかのようである。
つい先ほどまで「浮島のリーダーだ」と胸を張っていた姿とは似ても似つかず、今の彼は、存在そのものの輪郭が薄れた影法師のようだった。
沈黙が、じわりと広がっていく。
――その瞬間だった。
緋色が、ガシッ、と深真樹の両肩をつかむと、雨音を切り裂くように、声を張り上げてきた。
「元の世界に戻ってしまったら、俺は主人公でなくなる! モブキャラに戻ってしまうんだ! だから、地上世界へ戻れるわけがないんだよ!」
堰を切った濁流のように、押し込めていた感情と言葉が一気に溢れ出してくる。
深真樹は一瞬だけ彼を見つめ、それから静かに口を開いた。
「どういうことですか。緋色はスキル『フロート』を使って、私たちを救ったではありませんか。自信を持って下さい」
『フロート』――緋色の固有スキル。
触れている物体に継続的な浮力を与える能力であり、この浮島が長く沈まずに空に留まっていられたのも、すべて彼の力によるものだった。
とはいうものの、このスキルには明確な制約がある。
一度沈んだ物には効果が及ばず、さらに海上でしか作用しない。
つまり、地上世界ではほとんど意味を持たない能力なのだ。
もし沈没物まで引き上げられたなら、沈没船を回収し、国家規模の富を築くことも夢ではなかったかもしれない。
――だが、人の力とは、そう都合よくできていないのだろう。
緋色は宙を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「深真樹は聖女さんと地上世界へ戻ってくれ。ここには、また別の奴らが迷い込んでくるだろうし、俺はその人たちのために、ここに残るよ」
「人の役に立ちたいという気持ちは立派です。それに、主人公でなくても、緋色は緋色です。自分らしく生きればいいじゃないですか」
深真樹の言葉は、いつも真っ直ぐだ。
飾り気はなく、それでいて、不思議なほど相手の胸に深く刺さる。
心を動かし、揺さぶり、ときに逃げ道を塞ぐ刃のようでもある。
その正論を前に、緋色は唇をぎゅっと噛みしめ、視線を床へ落としていく。
心の奥――いや、全身で「そんなこと分かってる! 出来るならとっくにやってる!」と叫んでいるのだろう。
正論は、時に人を縛る枷となる。
そして彼は、かすれるほど細い声で呟いた。
「俺が地上世界に帰ったとしても、結局、深真樹も俺から離れていくんだろう」
「……」
「みんなから頼りにされてる深真樹には、俺の気持ちなんか分かるはずもないんだ」
瞳に滲む水滴は、雨ではない。
必死に平静を装っても、崩れかけた心は隠せなかった。
説得は行き詰まり、言葉は宙を彷徨う。
とはいうものの、このまま緋色を残せば、私自身が困る。
なぜなら――。
私が誤って撃ち込んだ『SKILL_VIRUS』が、今まさに、静かに彼のスキルを蝕んでいるからだ。
『フロート』の崩壊はすでに始まっている。
長くは持たない。
このラグナロク領域で能力を失えば、浮島は即座に沈み、緋色も命を落とすこととなるだろう。それは同族殺しとして扱われ、信仰心の深刻な低下を招く。結果は、あまりにも明白だ。
だから――強制的に連れて帰るしかない。
鉄拳制裁で気絶させる以外に、手段はないのか。
そう腹を固め、一歩踏み出した瞬間――。
ぐにり。
足元の床が、不自然な粘り気を帯びて“うねった”。
黒い液体がじわじわと滲み出し、形を変えながら波紋を大きくなっていった。
床そのものが生き物のように蠢き、何かが這い出ようとする気配が、空気を重く染め、胸の奥を押し潰すような圧迫感が、湿った空気とともに広がっていく。
黒い中心が膨張し、周囲の空気が沈む。
足元から淡い神気が立ち上り、温度が僅かに変わった。
ざわり、と肌に鳥肌が走る。
次の瞬間――。
床を突き破り、片膝をつき、深く頭を垂れた人型の影が姿を現してきた。
「私は、空の支配者であるホルム神の四柱の一角を担う、イムセティという者です。三華月様が厚い雲を突き破って下さったおかげで、少し力を取り戻し、自由になることができました」
異界の天空神ホルス。
その加護を授かるはずの神――だが、イムセティが纏う神気は驚くほど弱い。
とはいうものの、それは枯れ果てたものではなく、長く封じられていた力の残滓のようでもあった。
しかし、この場に現れた理由が「礼」だけであるはずもない。
むしろ、緋色への鉄拳制裁を止めるために現れたと考える方が自然だろう。
「イムセティ。あなたを助けるために雲を突き破ったわけではありません。礼には及びません。私の前から消えて下さい」
イムセティは頭を下げたまま、動かない。
私が緋色へ近づこうとすれば、するりと進路に回り込み、静かに立ちはだかる。
――緋色を守る意思は明白だった。
神気を帯びる以上、実力は未知数。
それでも、信仰心を守るためなら、異界の神であろうと排除する。
私は右手を伸ばし、力を解放します。
運命の弓――スナイパーモード、起動。
掌の中で、全長3mを超える白銀の弓がゆっくりと形を取り、眩い光で闇を押し返していく。
空気が一変し、戦場特有の緊張が張り詰めていた。
「イムセティ。私の邪魔をしたら、あなたを排除させて頂きます」
「三華月様。緋色自身は、ここに残りたいと望んでおります。本人の意思を無視し、力ずくで連れ去る行為には賛同しかねます」
「あなたに意見は求めていません。聞くつもりもありません。ここは実力行使で対処する――そう判断させて頂きます」




