100 vsペンギン②
300人の漂流者たちの視線が、一斉に私へと突き刺さってくる。
地上世界へ連れ帰る――そう宣言した、その瞬間からだ。
彼らの表情は一様に凍りつき、「信じたい、しかし信じきれない」という相反する感情が、顔の表面に張りついている。期待と疑念が絡まり合い、身動きが取れなくなったような、そんな戸惑いが露骨に浮かんでいた。
無理もない。
おそらく彼らは、地上へ戻るという希望など、とうの昔に手放していたのだろう。
この海域を囲む深海エリアには、かのクラーケンが棲んでいる。
巨大な触腕を持つ、海王生物の象徴とも呼ばれる存在だ。人間の力で突破するなど、ほぼ不可能に近い。地上への帰還など、夢物語――幻想の域に過ぎなかったはず。
とはいうものの、今この場で私の言葉を浴びた漂流者たちは、思考が完全に追いついていないようだった。時間が止まったかのように、誰一人として即座に反応できず、ただ固まっている。
最初に支配していたのは、耳鳴りすら感じるほどの静寂だった。
だが、やがて。
ほんの数人が、互いに顔を見合わせ、小声で囁き始めていく。
「……本当なのか?」
「そんなこと、あるはずが……」
ざわ。ざわざわ。
囁きは次第に数を増し、重なり合い、波紋のように広がっていき、木々の隙間を抜け、潮騒の合間に混じり、雑多な音の塊となって島全体を包み込んでいく。
そんな中で――緋色だけは、明らかに反応が遅れていた。
『SKILL_VIRUS』の影響なのか。
彼は状況を理解しようとする素振りすら見せず、口を半開きにしたまま、完全にフリーズしている。戸惑っているというより、そもそも情報処理が追いついていない。思考が、現実に置き去りにされているように見えた。
皆の不安を抑え、空気を支えるのがリーダーの役割――であるはず。
だが、この男には、その器がどうやら備わっていないらしい。
漂流者たちが勝手気ままに言葉を交わし、混乱の輪を広げていく中。
桟橋に立つ一人の女性が、静かに、しかし確かな足取りで一歩前へ踏み出していった。
その瞬間。ざわめきが、すっと吸い込まれるように消え去っていく。視線が一斉に彼女へ集まり、空気がきゅっと引き締まる。その変化を、誰もが肌で感じ取ったのだろう。
彼女は、緋色の嫁のうちの1人――深真樹。
他の2人がその名を呼んでいたため、私にも聞き覚えがあった。
大きく澄んだ瞳。やや吊り上がった目元。
20歳を少し過ぎたばかりの、すらりとした体躯。一般的な基準で見ても、美人の部類に入るだろう。
だが、それ以上に印象的だったのは、その立ち方だった。
背筋をまっすぐに伸ばし、重心のぶれない姿勢。そこには、言葉を発さずとも伝わる、静かな芯の強さが宿っている。姿勢だけで周囲を落ち着かせる、確かな頼もしさがあった。
私の足元で、ペンギンが桟橋の板を「ちょこり」と鳴らし、身じろぎすると、小さく口を開いてきた。
「三華月様。深真樹と呼ばれる女性からは、リーダーとしての資質を強く感じますね」
私も、まさに同じことを考えていた。
彼女の声は大きくも鋭くもない。それなのに、見えない糸が張られたかのように、場の空気がぴんと整えられていく。
緋色は「俺がリーダーだ」と胸を張っていたが――実際にこの浮島で漂流者たちをまとめ、混乱寸前の空気を支え続けてきたのは、深真樹だったのだろう。なるほど、その背中が自然と頼もしく見えるのも、納得できる話だ。
深真樹は、固まったままの緋色を横目で一瞥し、わずかに唇を震わせると、すぐに気持ちを切り替え、しっかりと私へ向き直ってきた。
私が「皆を地上へ帰す」と宣言した件について。
その真偽を、丁寧に、だが切迫した空気を纏って確認しようとしている。場の緊張が、ぴんと張り詰めるのがわかる。
「聖女様。先ほどのお話について、確認させてください。ここから脱出するには、外海にいる海王生物の群れを突破する必要があります。聖女様には……そのような芸当が、本当に可能なのでしょうか」
落ち着いた声色。
しかし、その奥には緊張が食い込み、責任感と恐れ、そしてかすかな希望が複雑に絡み合っている。それらが胸の奥で渦を巻いているのが、直感的に伝わってきた。彼女にとって、極めて重要な問いなのだ。
だが――その問いに、真っ先に反応したのは私ではなかった。
ぼんやりと固まっていた緋色が、突然、両腕をバタバタと振り回すと、張り詰めた空気を払いのけるかのように、声を張り上げてきた。
「深真樹の言う通りだ! 外海には、俺たちの船を破壊した海王生物が確実にいるんだぞ! 脱出なんて、まったくもって不可能だ! 世の中、うまい話には裏があるとはいうものの、疑ってかかるのが当然だろう!」
――……おい。
私はいつの間にか、怪しい人物扱いされているではないか。
緋色という男は、肝が据わっているのか、それとも単に抜けているのか、判断に迷う存在だ。
当然だが――漂流者たちの誰一人として、彼に同調しなかった。
まあ、当然だろう。
聖女相手に、あの物言いだ。反発が生まれない方がおかしい。ましてや、私が示した希望を、根拠もなく切り捨てられて納得できるはずもない。
そもそも深真樹は否定していない。ただ“確認”しているだけだ。詐欺師扱いなどしていない。すべては、緋色の暴走――その一言に尽きる。
気まずさが、じわじわと空気を覆っていく。
冷たく、しっとりとした重さが胸の奥まで染み込んでくる。こんな“しらけた空気”の広がり方、嫌いではない。むしろ、観察せずにはいられない。
緋色もさすがに事態の重さを悟ったらしく、唇をきゅっと引きつらせ、肩を落として俯いたいた。本来なら、深真樹が彼を諭す立場だ。しかし今、口を出せば恥をかかせることになるのは明白だ――とはいうものの、彼女がどう出るのか、興味が湧いてしまうのも確かである。
そんな重く張り詰めた空気を、ひょいと断ち切ったのは、小さな影だった。
ペンギンが一歩、勇ましく前に出ると、羽を少し広げ、「びしっ」と音がしそうなほど張りのある声で宣言したのであった。
「皆さん。私たちが乗ってきた、あの無傷の船をご覧ください! 何故、無傷なのか。それは――皆さんが恐れる海王生物を、聖女・三華月様が退けたからなのです!」
その瞬間、漂流者たちの肩が「ざわっ」と揺れていく。
ただし、驚きの大半は――“ペンギンが喋った”という事実に持っていかれたようだ。
ニャハハハ。……本鳥は自分が愛されキャラだと思っていたらしいが、この反応は完全に予想外だったようだったな。
「な、なんだこの空気は!?」とでも言いたげな、ペンギンのキラキラした視線が、実に可笑しい。もっと混乱してもよい、うむ、と内心で頷き、思わず微笑んでしまう。
とはいえ、このままでは場がまとまらない。
仕方がない。ここは――優しくて、心根の良い聖女である私が、場を整えようてあげようではないか。
「こちらの個体は、ペンギンと申します。私の特級下僕でございます。怪しい生物ではありませんので、どうか安心してください」
これほど可憐で上品な聖女の言葉であれば、普通の男なら疑いもせず信じるだろう。
……とはいうものの、漂流者たちの顔色は、なぜかぱっとしない。どういうことなのか。
……やはり、“私が治癒できない”と正直に告げたことが、尾を引いているのだろうか。
そのとき、深真樹が皆の方へ振り向くいていくと、背筋をしなやかに伸ばし、意思の強さを全身で示した。
「私は、聖女様を信じて、命を懸けてみようと思います」
しん、と。
一瞬だけ、世界が止まったかのような静寂が落ちていく。
だが次の瞬間、その言葉は、冷え切った空気に火を灯すように、ゆっくりと漂流者たちの心へ浸透していった。皆、追い詰められている。ここで希望を手放せば、待つのはジリ貧の未来だけ。希望という光にすがりたくなるのは、当然の感情だろう。
深真樹の“覚悟”は、揺れる心の隙間にそっと手を添え、押し上げたのだ。
やがて賛同の声が次々とあがり、固まっていた空気が、ゆっくりと溶けていく様子が、目に見えるようだった。
緋色は口を「ぱくぱく」とさせたまま、何も言えずにいる。
本当に、この男は、どこか抜けている。
そんな緋色を尻目に、ペンギンは今度は深真樹に向き直った。
「深真樹殿。私から皆さんへ、贈り物があります。きっと、喜んでいただけると思いますよ」
……出たな。
第99話で宣言していた「次は僕のターンです」の、本領発揮といったところか。
ペンギンの言葉に、深真樹がゆっくりとこちらを振り返ったその瞳には、先ほどまでの迷いが嘘のように消え、澄んだ光が強く宿っていた。覚悟を決めた人間特有の、鋭くも穏やかな眼差しだ。
そしてペンギンは、静かに、しかし確実に説明を続けてきた。
「私たちが乗ってきた旗艦ポラリスには、医療品や食料が豊富に積まれております。皆さんにとって、地上世界への帰還は悲願であるでしょう。しかし今、最も重要なのは、まず体を癒し、回復に努めることです。世界で最も高貴な聖女である三華月様が、必ず皆さまを地上へ送り届けてくださいます。ですので、まずは焦らず、体を癒してください」
……さすが、ペンギン。
希望を示すだけでなく、私が手を出せない怪我や病を、自然に補ってくれるとは。実に、なんとも頼もしい存在なのだった。




