「虚説であろう」
元亀元年(一五七〇)四月、越前敦賀。
朝倉討伐軍三万を率いる信長は、金ヶ崎城を落とし、木ノ芽峠の向こうの朝倉本国に迫っていた。そこへ、江北の同盟者・浅井長政離反の報が届く。
このときの信長の反応を、『信長公記』は簡潔に、しかし生々しく書き残している。
趣旨はこうだ──浅井が手切れした、との注進が方々から入った。しかし、浅井は歴然たる御縁者(妹婿)である。そのうえ江北一円を任せている間柄であれば、「虚説たるべし」と思し召された──嘘の報せに決まっている、と信長は思った、というのである。だが同様の注進が続々と入るに及び、「是非に及ばず」──やむを得ぬ、と全軍撤退が決まった。
天下の信長が、情報を疑った。
それも、希望的観測の側に疑った。
この記述は貴重である。調略の被害というものが、物理的な打撃の前に、まず認識の混乱として現れることを、一級史料が証言しているからだ。
裏切りの報せは、常に「まさか」とともに届く。そして「まさか」と思っている数刻が、しばしば命取りになる。信長は辛うじて間に合った。浅井領は織田軍の退路そのものである。挟撃されれば全滅──信長は全軍を捨てて数十騎で京都へ奔り(金ヶ崎の退き口)、殿軍を託された池田勝正・明智光秀・木下秀吉らが決死の後衛戦で軍を逃がした。
信長の生涯で最も死に近づいた瞬間の一つであった。
長政は信長の妹お市の方の婿であり、織田・浅井同盟は北近江の安全と上洛路を保障する枢軸だった。その長政が、なぜ勝ち馬から降りたのか。この問いは、調略を「仕掛ける側」の視点で描いてきた本書にとって、鏡を裏返す作業である。
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人はどういうとき、同盟を捨てるのであろうか?




