信長(二) 小括──組織化される調略と、その担い手
美濃戦役と上洛戦から見えてくる信長の調略の特徴を整理する。
第一に、大義名分の多段活用──道三の譲り状、義昭の将軍位と、その時々の目標に合わせて権威を調達する。
第二に、調略の分業化──方面ごとに担当者(柴田・丹羽・佐久間・木下ら)を置き、切り崩しを軍事と一体の標準工程として運用する。信玄の甲州流(第十章)と同じ方向の「工業化」だが、信長のそれは家格に縛られない人材登用と結びついた点で徹底していた。
第三に、非線形性の理解──調略の成果が閾値を超えるまで待ち、超えた瞬間に全軍を投入して雪崩を完成させる。
そして人材の面では、この時期に秀吉という「調略専門職」が育ち始めたことが、本書の後半にとって決定的である。
ただし、調略を組織の武器にした信長は、同じ武器で刺される側にも回る。次章は、その最初にして最大の衝撃──妹婿・浅井長政の離反を語ろう。
墨俣一夜城の伝説で秀吉を助ける頼れる相棒、蜂須賀小六。ところが後世、この人には妙な肩書が付いてしまいました。
「野武士の頭目」「夜盗の親分」。
江戸時代の『絵本太閤記』などが作り上げたイメージです。秀吉の若い頃には、少々荒っぽい仲間がいたほうが物語として面白い。そこで小六は、いつの間にか川筋を押さえる土豪から、夜な夜な獲物を狙うアウトローへと転職させられてしまいました。名前もなんとなくアレですしね。
講談や読み物では、この設定が実によく映えます。
若き秀吉が知恵で野武士をまとめ、荒くれ者の小六が「おもしれえ、手を貸そう」と加勢する。絵になるし、話も早いでしょう。何よりキャラクターが立っています。その結果、「蜂須賀小六=盗賊の親分」という像が国民的に定着してしまいました。
困ったのは子孫です。
蜂須賀家はその後、阿波徳島二十五万石の大大名となり、明治維新を越えて侯爵家にまで列しました。ところが世間では、ご先祖様が相変わらず「元夜盗」。侯爵家としては、なかなか具合が悪かったと思います。
伝わる話では、明治時代の蜂須賀侯爵が、小六を夜盗と書いた教科書の記述に対して訂正を働きかけたともいわれます。まあ無理もありません。
史料から見えてくる蜂須賀小六は、木曽川周辺の水運や地域勢力を押さえた有力土豪であって、山賊映画に出てくるような夜盗の親分ではありません。少なくとも「盗賊団のボス」という後世のイメージは、かなり物語寄りなのです。
つまり蜂須賀家としては、
「うちの先祖、泥棒じゃありませんから」
と数百年越しに訂正する羽目になったわけです。
ところが伝説というものは、一度できるとなかなか退職してくれません。
さらに意地の悪い後日譚まで生まれました。ある宴席で、蜂須賀侯爵が卓上の煙草をひょいと一本取ったところ、同席していた貴人が、「先祖の血が出たか」とからかった――という話です。
もちろん、確かな史実とは言い難い逸話ですが、あまりに出来すぎているので生き残ったのでしょう。
先祖を夜盗呼ばわりされた子孫が、必死に名誉回復をしているその横で、今度は煙草一本で「やっぱり盗るんだ」と言われる。(笑)
歴史とは、時にずいぶん意地が悪いものです。
それにしても面白いのは、ここまで来ると蜂須賀小六本人の実像より、「夜盗だったことにされている」という事実のほうが長生きしていることです。
史実は訂正できますが、物語は、訂正されてもなお面白いほうへ逃げていくものなのです。四百年前に作られたキャラクター設定が、明治の侯爵家の社交界にまで追いかけてくるのですから、その執念深さたるや大したものです。
伝説とは、死なず、むしろ子孫の代まで、しっかり働くのであります。
- 『信長公記』(太田牛一)──美濃攻略戦役の基本史料
- 稲葉山城乗っ取り事件──『竹中家譜』ほか竹中氏関係の記録(脚色に留意)
- 「天下布武」印判状──印文の解釈をめぐる近年の研究(神田千里・金子拓ほか「天下」概念論)
- 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館)──美濃攻略と上洛戦の実証的整理
- 柴裕之『織田信長──戦国時代の「正義」を貫く』(平凡社)──近年の信長像
- 『絵本太閤記』──墨俣伝説・蜂須賀像の流布元(江戸期読本としての性格に留意)




