「天下布武」の四文字
稲葉山城を岐阜と改名した信長は、この頃から「天下布武」の印判を使用し始める。
この四字は長く「武力による天下統一の宣言」と読まれてきたが、近年の研究は別の読みを提示している。当時の「天下」は日本全土ではなく、京都を中心とする畿内の政治秩序を指す語であり、「布武」は武家の政道を布くこと──すなわち「畿内の秩序を武家(将軍を含む)の手で回復する」という、当面の政治綱領だったとする解釈である。
どちらの読みを取るにせよ、調略史の観点で重要なのは、目標を公示するという行為そのものである。
戦国大名の多くは、意図を隠すことを美徳とした。信長は逆を行く。「自分はここへ向かう」と印判に刻んで、発給するすべての文書で宣言し続けた。
公示された目標は、列島のすべてのプレイヤーに損得勘定を強いる。早く乗れば席は良く、遅れれば席は悪く、逆らえば席はない。
目標の公示は、それ自体が全国規模の調略装置となる。会社のロゴに中期経営計画を刻み込むようなもので、正気の沙汰ではないが、効果は絶大だった。
以後、浅井長政との同盟(妹お市の輿入れ)、足利義昭の擁立と上洛(永禄十一年)まで、信長の動きは「天下」という言葉を接着剤に、猛烈な速度で同盟網を編成していく。
義昭擁立は、その最大の一手だった。
兄義輝を殺され、諸国を流浪していた義昭は、「将軍候補」という最高級の大義名分の持ち主である。
朝倉義景がこの資産を持て余したのに対し、信長は即座に価値を見抜き、美濃平定からわずか一年で上洛戦を敢行した。
六角氏は箕作城の陥落と同時に(ここでも観音寺城下の国人の切り崩しが効いた)崩壊し、三好勢は駆逐され、義昭は十五代将軍となる。
信長は将軍の「御父」格の権威を得て、幕府の権威と自身の武力を束ねた二重権力を握った。権威の調達という早雲以来の技術(第五章)の、最大規模の適用である。




