墨俣の伝説と、川並衆という実質
この美濃戦役で頭角を現したのが、木下藤吉郎秀吉である。
名高い墨俣一夜城──川並衆を使い、資材を川で流して一夜のうちに砦を築いたという物語──は、江戸期の伝記類が初出であり、史実性は低いというのが研究の大勢である。
だが後述する通り、伝説の芯には史実がある。
木曽川筋の水運土豪・蜂須賀小六正勝ら川並衆が、早くから秀吉と結び、生涯その軍団の中核であり続けたこと。
美濃攻防の焦点が常に渡河点であり、川筋を生活圏とする川並衆の向背が作戦の成否に直結したこと。
そして秀吉がこの時期、前線の築城・兵站の実務で信長の評価を得ていったことである。
つまり墨俣伝説は、「秀吉の出世の原資は、正規の武士社会の外にある人的ネットワークだった」という本質の、物語形式での記憶なのである。
草履取りから始まった男は、家柄も譜代の家臣も持たない。持っているのは、身分の低い世界──川並衆、商人、野伏、村の顔役──への回路だけだった。そしてこの時代、その世界こそが情報と調略の底流だった。
美濃三人衆調略の考証役についても、後世の伝記は秀吉の功を大きく語る。
史料的な確度は個々に濃淡があるが、美濃平定直後から秀吉が織田家の文書行政と交渉ごとに奉行として頻繁に現れることは確かであり、これは美濃戦役期に調略・折衝の実績を認められた者の配置と考えるのが自然である。
そして冒頭の男、竹中半兵衛が、後に織田家中の誰でもなく、最も家格の低い秀吉の与力(参謀)に付いたのは事実であった。
三顧の礼の逸話は脚色を含むにせよ、美濃随一の知恵者が秀吉を選んだという結果は、当時の織田家中で「調略の秀吉」がどう見られていたかを、どんな文書よりも雄弁に語っている。
知恵者は、知恵の使い手を選ぶのである。




