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七年戦争の実相
桶狭間の翌年から、信長は美濃攻略に取りかかる。
相手は道三を討った斎藤義龍、その急死(永禄四年)後は若い龍興。国力では美濃は尾張に劣らず、木曽・長良の大河が天然の堀をなす。
信長は正攻法の侵攻を何度も撃退され、戦役は足かけ七年に及んだ。
この七年の帰趨を決めたのは、美濃国人衆の切り崩しであった。信長は「岳父道三の遺領回復」という大儀名分(第九章の譲り状の効用がここで発動する)を掲げつつ、多層的な工作を続けた。
東美濃では苗木の遠山氏ら国境国人と縁組を結んで固め、中美濃では永禄八年頃、関・加治田方面の国人が相次いで織田方に転じた。加治田城の佐藤氏の内応は、隣接する堂洞城攻めの成否を分けた。
とどめが、美濃三人衆──稲葉一鉄(良通)・氏家卜全(直元)・安藤守就──の一斉内応である(永禄十年)。
西美濃に大きな勢力を持つこの三人が人質を添えて織田方に通じた時点で、斎藤龍興の命運は尽きた。
信長は三人衆の内応の報を受けるや即座に全軍を動かし、稲葉山城下に殺到、龍興は伊勢長島へ逃れて稲葉山城は落ちた。
七年かかった美濃が、最後はわずか半月で落ちたのである。調略には時間がかかる。だが閾値を超えた瞬間、雪崩になる──美濃戦役はこの「調略は非線形性」の見本である。




