十七人の登城
永禄七年(一五六四)二月のある朝、美濃 稲葉山城。
城下から本丸へ、小さな一行が登っていく。先頭に立つのは、斎藤家の若い重臣・竹中半兵衛 重治。城内では半兵衛の弟が番衆として勤めており、病気療養中である。
今日は兄が、見舞いの品を届けに来た──という体である。従者たちが担ぐ長持には、見舞いの品々が納められている、はずだった。
城門が開く。顔見知りの兄の見舞いを、誰が怪しもう。一行が本丸に入り、長持が下ろされる。蓋が開く。中から現れたのは、見舞いの品ではなく、武具だった。
半兵衛と手勢十数人(十六人とも十七人とも伝える)は瞬く間に武装し、城内の要所を制圧、驚いて逃げ惑う城兵を尻目に、美濃五十四万石の本城は、白昼、たった一握りの男たちに乗っ取られた。
城主 斎藤龍興は、命からがら城を脱出した──。
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この稲葉山城乗っ取り事件は、細部に軍記的脚色を含むものの、半兵衛が主君の居城を一時占拠したこと自体は確かな史実である。
動機は龍興の側近政治への諫言説など、諸説ある。半年後、半兵衛は城をあっさり龍興に返し、自身は隠棲した。
だが、返された城はもう、元の城ではなかった。「斎藤家の本城は、家臣に長持で乗っ取られる」──この認識が、美濃じゅうの国人の頭に刻まれたからである。
城の縄張り(なわばり)は無傷でも、城の信用は全壊していた。
信長の美濃攻略が本格化するのは、この事件からである。七年戦争の帰趨を決めたのは、会戦ではなく、こうした信用の崩落と、それに付け込む切り崩し──調略だった。




