情報という主戦場
桶狭間を調略史に置き直すと、次の教訓が抽出できる。
第一に、地の利とは地形のことではなく、情報生態系の掌握のことことである。
第二に、機密は組織で守るより、そもそも共有しないことで守れる(ただし属人化のリスクと引き換えである)。
第三に、敵の認識は、緒戦の「見せ方」で誘導できる。第四に、戦争の目的が政治的決定である以上、敵の意思決定中枢の除去は、敵軍の撃滅に勝る。その転換の最初の実験場が、亡き岳父・道三の国、美濃だった。
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次章では、七年を要した美濃攻略を通じて、「信長の調略」の組織化と、その現場を担った一人の草履取り上がりの男の登場を見る。
はい、お待たせしました!桶狭間の戦いといえば、誰もが知る戦国史の名場面です。織田信長が今川義元の大軍を破り、一躍その名を天下に知らしめた大逆転劇。
ところが、その「桶狭間」がどこだったのかとなると、話は急にややこしくなります。
現在、有力な伝承地は大きく二つあります。愛知県豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」と、名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」一帯です。しかも両者は、何十キロも離れているわけではありません。直線距離でわずか一キロほど。歩いても行ける距離です。
それなのに、双方に「ここで義元が討たれた」という伝承があって、供養塔があって、地元はそれぞれ丁寧に顕彰を続けています。要するに、日本で最も有名な古戦場をめぐって、市境をまたいだ本家争いが続いているわけですね。
もちろん、研究者も黙ってはいません(笑)。
今川義元の本陣はどこにあったのか。信長は山を迂回して奇襲したのか、それともほぼ正面から進んだのか。史料に出てくる「桶狭間山」とはいったいどの丘なのか。地形、古道、史料、伝承を突き合わせながら、でも議論はいまだ決着していません。
ただ、ここで少し見方を変えると、この「決められなさ」そのものが、桶狭間という戦いの正体をよく表しているようにも思えます。桶狭間は、広い平野に両軍が整然と布陣し、何万人もの兵が一斉にぶつかった関ヶ原型の会戦ではないのです。
大軍の一部が入り乱れるなか、信長勢が今川軍の中枢へ食い込み、最終的に義元本人を討ち取りました。つまり、戦場全体を制圧したというより、「本陣という一点」を潰してしまった戦いなのです。だからこそ、後世から見て「ここからここまでが戦場です」と線を引きにくいわけです。
そもそもですが、この戦場が面として残らなかったのは、戦いそのものが面ではなかったからです。桶狭間の勝敗を決めたのは、何平方キロを奪ったかでも、何人を討ち取ったかでもありません。義元の首、一つでした。考えてみれば、ずいぶん戦国らしい話です。
数万の軍勢が動いていても、総大将一人が倒れれば、それですべてがひっくり返る。巨大な戦争の決着点が、驚くほど小さい。だから桶狭間は、四百年以上たった今でも「戦場はここだ」と一本の線で囲えないのでしょう。
そして豊明も名古屋も、それぞれ胸を張って「うちが桶狭間です」と言える。本家が二つあるのは、まあ歴史学的には少々困りますが、観光的にはなかなか都合がいいのですね。何しろ戦いそのものが一点決着だったのですから、古戦場くらい、二つあってもよいのかもしれません。
- 『信長公記』首巻(太田牛一)──敦盛の舞、出撃、中島砦からの攻撃下知の記述
- 藤本正行『信長の戦争──『信長公記』に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫)──迂回奇襲説の批判と正面攻撃説
- 和田裕弘『信長公記──戦国覇者の一級史料』(中公新書)──史料としての『信長公記』の性格
- 小和田哲男ほか桶狭間合戦の諸研究──戦場位置・兵力の論争整理
- 太田輝夫ほか地元自治体の古戦場調査──豊明市・名古屋市緑区の伝承地
- 有光友學『今川義元』──今川側から見た尾張侵攻




