「謀反」から「才覚」へ──価値観の転換
鎌倉期までの武家社会では、主君への叛逆は「謀反」として最も重い罪とされた。ところが室町後期から戦国期にかけて、下の者が上の者を実力で押しのける行為を「下剋上」と呼び、それを才覚の発露として半ば容認する空気が生まれてくる。
この転換を示す言葉が、戦国期の武家家訓に現れる「器用」──能力──の思想である。朝倉孝景の家訓とされる『朝倉孝景条々』の第一条は名高い。「朝倉が家においては宿老を定むべからず。その身の器用と忠節によりて申し付くべきなり」──朝倉家では、家柄で重臣の座を世襲させてはならない。本人の能力と忠節によって任用せよ──。十五世紀の文書として、驚くほど近代的な人事方針である。
同条々は続けて、名刀一振りに大金を出すより、その金で百本の槍を買って百人に持たせよ、とも説く。合理主義ここに極まれり、だが百本の槍を持った百人が誰に忠誠を誓うかまでは、家訓は保証してくれない。
実力主義は、登用の論理であると同時に、簒奪の論理でもある。器量なき主君は取り替えてよい──この観念こそ、戦国の調略が働きかけた最大の急所だった。
調略者が敵の家臣を口説くとき、その殺し文句は常に二つの要素からなっていた。一つは利益──所領の安堵と加増。もう一つは正当化──「今の主君に器量なし。見限るのは不忠ではなく、家を保つ分別である」。これを社会が受け入れていたからこそ、調略は技能した。思想が裏切りを許し、裏切りが調略を育てたのである。




