『孫子』の知
『孫子』の知が、貴族の書庫から武士の戦場へ降りた瞬間を伝える、有名な逸話がある。
『古今著聞集』などが伝えるところによれば、後三年合戦(一〇八三〜八七)に向かう源義家──八幡太郎義家、武門の棟梁の代名詞となる男──は、かつて大江匡房とすれ違った際、この当代一の学者が「器量は賢き武者なれども、なお軍の道を知らず」と評したと聞き、怒るどころか、匡房の門を叩いて兵法を学んだという。
そして奥州の戦場。金沢柵へ進む義家は、空を渡る雁の列が乱れて散るのを見て、ふと馬を止める。──兵、野に伏す時は、雁行列を破る。匡房に習った一句が閃いた。義家は伏兵ありと断じて先回りし、果たして草中に潜んでいた敵兵を討ち取った──。
これは説話であるから、事実そのままとは言えない。だがこの逸話が長く語り継がれたこと自体に、意味がある。
第一に、武士たちが「学問は戦の役に立つ」という物語を必要とし、愛したこと。
第二に、その学問の中身が、正々堂々の戦い方ではなく、敵の隠れた意図を読む技術──つまり情報と観察の学だったこと。
雁の乱れから伏兵を推理する義家の姿は、後の戦国で、商人の米買いから開戦を察知し、敵陣の炊煙の数から兵力を割り出す物見たちの、遠い先祖にあたるといえよう。
日本の兵学は、こうして「読む技術」として受容された。そしてこの受容の仕方が、日本の調略の性格を方向づけたように思われる。
それは、中国の兵書が説く壮大な国家戦略よりも、目の前の敵の心と挙動をどう読み、どう欺くかとうい、いわば接近戦の心理学である。戦国の調略が、大戦略の学というより人間観察の職人芸として発達したことの遠因を、この最初の一歩に見ることもできよう。




