応仁の乱前夜──幕府という調略装置の失敗
調略の技術史という観点から見ると、室町幕府そのものが一つの巨大な「調略による統治」の実験だったと言える。
三代将軍足利義満は、強大化した守護大名を、正面からの武力ではなく謀略でけずった。明徳の乱(一三九一)では、十一ヶ国の守護を兼ねて「六分一衆」と呼ばれた山名氏の一族内対立をあおり、当主氏清を挙兵に追い込んで討ち、山名氏の分国を三ヶ国まで削減した。応永の乱(一三九九)では、大内義弘を挑発と孤立化によって堺での挙兵に追い込み、これを潰した。
こうした義満の手法は、敵の一族に必ず味方を作っておき、本家を潰した後にその味方へ家督を継がせるというもので、後の戦国調略の原型がここにほぼ出そろっている。義満という人は、金閣を建てた文化人の顔と、守護大名を将棋の駒のように詰ませる権謀家の顔を、涼しく同居させていた。
しかし、この「分裂させて統治する」手法は、幕府の実力が衰えると逆回転を始める。
将軍家自身の後継争い、管領家畠山・斯波の家督争いに、細川勝元と山名宗全という二大実力者がそれぞれ介入し、火に油を注ぎ合った結果が応仁の乱(一四六七〜七七)である。かつて義満が山名一族に打ち込んだ楔の技法を、今度は山名宗全が幕府の内側で使ったのだ。調略装置としての幕府は、最後には自らが仕掛けてきた離間の火で焼け落ちた。
そして、この十一年の大乱が、日本全土を調略の実験場に変えていく。次章では、応仁の乱がどのようにして「裏切りの構造」を全国に輸出し、下剋上の百年を開いたのかを見ていこう。
ちなみに、起請文の正式な用紙とされたのが、熊野三山(本宮・新宮・那智)が発行した「牛王宝印」だったそうです。
無数のカラスを組み合わせて文字を描いたかなり中二病の護符で、中世の人はこの護符の裏に誓約を書いたんです。伝承では、起請を破ると熊野のカラスが三羽死んで、破った本人は血を吐く、みたいな呪いがあったとされています。
この誓約一件につきカラス三羽という交換レートの根拠は不明ですが(笑)、とにもかくにも、中世日本の契約インフラは、この一枚の紙で支えられていました。この牛王宝印は熊野比丘尼らの手で全国に頒布され、いわば「公証役場の用紙」みたいに流通したそうですよ。
宗教が金融や契約の信用を裏打ちする構造は世界共通ですが、しかしまあ、それを一羽のカラスに担わせた例は珍しいんじゃないでしょうか。
なお、現在も熊野三山ではこれを授与されていて、これはもっぱら誓約用ではなくお守りとして人気だそうです。時代は変わったんですね(笑)。
『孫子』計篇・軍争篇・用間篇(金谷治訳注『新訂 孫子』岩波文庫/浅野裕一『孫子』講談社学術文庫)
『平家物語』『吾妻鏡』──壇ノ浦の水軍の去就(阿波重能の寝返り記事)
『太平記』(兵藤裕己校注、岩波文庫)──南北朝期の去就と謀略の事例集
『朝倉孝景条々』(『中世政治社会思想』岩波日本思想大系などに所収)
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)──観応の擾乱と武士の去就
呉座勇一『応仁の乱』(中公新書)──乱の経緯と室町政治の構造
千々和到『板碑とその時代』ほか起請文研究──牛王宝印と神文の様式
『古今著聞集』──大江匡房と源義家の兵法伝授説話
森茂暁『佐々木導誉』(吉川弘文館・人物叢書)──婆娑羅大名の実像




