稲荷山の狼煙──足軽たちの京都
文明二年(一四七〇)ごろの京都を、一人の男の目から眺めてみよう。
男の名は骨皮道賢。素性は侍とも悪党ともつかない。幕府の下部として洛中の治安維持──というよりは、盗賊の取り締まりを盗賊の顔役に委ねる例のやり方──に使われていた男である。
応仁の乱が始まると、道賢は東軍に雇われ、三百人とも言われる足軽を率いて伏見稲荷山に砦を構えた。そこから西軍の補給路を襲い、放火し、略奪し、神出鬼没のゲリラ戦で西軍を悩ませ続けた。
足軽──軽装で駆け回る雑兵たち──が、歴史の表舞台に躍り出たのは、この大乱からである。
彼らは恩賞ではなく日銭と略奪品で働き、形勢が悪ければ消え、良ければ増えた。公家の一条兼良は、都を焼く足軽どもを「超過したる悪党」と書き残して憤慨したが、憤慨する公家の邸宅も、たいてい足軽たちに焼かれた。
やがて道賢は西軍の大攻勢を受けて稲荷山で討たれる。その最期は、変装して逃れようとしたところを見破られたとも伝わっている……。
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京都の民衆は、この無頼の傭兵隊長の死を、落書や噂話で面白おかしく語り合った。乱世の京都では、悲劇と娯楽の仕切りが早くも壊れ始めていた。
応仁の乱と聞くと、細川と山名の大乱、と教科書で習った。だが京都の路上の実相は、道賢のような請負業者たちによる戦争だった。
大義名分は東西両軍の本陣にしかなく、戦場を実際に動かしていたのは、日銭と略奪と、勝ち馬への嗅覚である。この「下からの実力の噴出」こそ、大乱が全国に輸出した最大の商品だった。上が権威で争っている隙に、下が実力で這い上がる──下剋上の百年は、稲荷山の狼煙から始まったと言ってよい。
だんだん調略と関係なくなってきました




