二 十一年の大乱が壊したもの
応仁元年(一四六七)五月、京都上御霊社の森で始まった細川方(東軍)と山名方(西軍)の衝突は、当初、誰もが数ヶ月で終わると考えていたが、十一年続いた。京都の市街は焼き尽くされ、「汝ヤシル都ハ野辺ノ夕雲雀 アガルヲ見テモ落ツル涙ハ」──おまえは知っているか、都が雲雀の舞う野辺になってしまったのを──と『応仁記』はうたう。
しかし応仁の乱の本当の破壊は、建物ではなく制度だった。
第一に、将軍の権威が失墜した。東西両軍がそれぞれ「公方」を担ぎ、将軍の命令が党派の道具にすぎないことが天下に露呈した。
第二に、守護大名の在京態勢が崩れた。守護たちは十年以上も領国を留守にして京都で消耗し、その間、領国の実権は現地を預かる守護代や有力国人の手に移った。単身赴任が長すぎて、帰ったら家が他人のものになっていたのである。
第三に、荘園制が事実上崩壊した。京都の公家・寺社が地方の荘園から年貢を取る仕組みは、現地の武士による横領を止める力を完全に喪失させた。興福寺の門跡・尋尊がその日記『大乗院寺社雑事記』に書き続けた年貢未進への嘆きは、この時代の公家・寺社全体共通の悲鳴だったのである。
つまり応仁の乱は、「中央の権威が地方の秩序を保障する」という日本の統治構造そのものが解体したことを表している。そして、これ以後、各地の支配権は、中央からの任命ではなく、現地での実力によってのみ決まることになった。




