下剋上の三つの型
下剋上と一口に言うが、その実態は精密に見ると三つの型に分かれる。そしてそれぞれの型が、異なる調略の技術を要求した。
第一の型は「守護代による守護の乗っ取り」である。越前の朝倉孝景は、応仁の乱のさなか、西軍から東軍へ寝返る見返りに幕府から越前守護職(の実質)を約束され、主家筋の斯波氏を追って一国の主となった。
あるいは尾張の織田氏、越後の長尾氏(上杉謙信の生家)もこの型である。
守護代は領国の行政実務と国人との人脈を握っており、主家の権威が衰えた瞬間に、実務の支配を名実ともの支配へ転換した。この型の調略の要点は、国人衆の支持の取りつけと、中央(幕府)からの追認の獲得である。朝倉孝景の寝返りが「幕府のお墨つき」とセットだったことは、下剋上ですら正当性の調達を必要としたことを示している。乗っ取りにも、領収書が要るのである。
第二の型は「重臣による主家の簒奪」である。出雲の尼子経久、美濃の斎藤道三(父子二代とする説が有力)、備前の宇喜多直家がこの型で、謀略の色彩が最も濃い。
主家の内紛に付け込み、対抗馬を暗殺や讒言で排除し、最後は主君を追放または殺害する。この型は正当性の確保が最も難しく、それゆえに尼子や宇喜多は寺社への寄進や旧主一族の傀儡擁立など、周到な偽装工作を必要とした。
第三の型は「外来者による国盗り」である。伊豆に乱入した伊勢宗瑞(北条早雲)が代表だが、実はこの型が最も少ない。縁もゆかりもない土地を外から奪うことは、戦国においてすら極めて困難だった。
早雲の成功は、幕府政界での人脈、今川家の外戚という立場、そして民心収攬という新技術の組み合わせによる例外的事業なのだ。彼には後の章で最初の主役を担ってもらおう。




