第二層と第三層──秘匿と誘導
情報戦の第二層は、秘匿である。
軍議で何も語らなかった信長の振る舞いは、無策の居直りではなく、最も原始的で確実な防諜だった。作戦計画が当主の頭の中にしか存在しない以上、漏れようがない。
現に織田家からは、鳴海城主山口教継が今川へ寝返ったばかりだったことからもわかるように、敵中に内通者を想定しなければならない戦国の軍議において、「誰にも言わない」は合理的な選択である。ただし属人的機密保持は、当主が討たれれば全軍が崩壊する賭けと裏腹であることも、記しておかねばならない。
第三層は、認識の誘導である。
緒戦で丸根・鷲津の両砦は陥落し、松平元康(後の家康)が大高城への兵糧搬入に成功する。今川方から見れば、作戦は予定通り進捗し、織田方は各所で受け身に回っていた。義元本隊が桶狭間山で休息したのは、慢心というより、「勝ちつつある遠征軍の定常運転」だったと見るべきだろう。
信長は善照寺砦に兵を集結させつつ、佐々政次・千秋季忠らの小部隊が今川前衛に突撃して玉砕する(命令か偶発かは議論がある)。結果としてこの犠牲は、「織田の反撃はこの程度の散発的なもの」という認識を今川本陣に植え付けた。
そこへ豪雨が来た。
視界と音を消す雨は、接近する織田軍の最後の天然の隠れ蓑となった。雨が上がった瞬間、信長軍は今川本陣へ突っ込んだ。長く信じられてきた「山越えの迂回奇襲」に対し、近年は『信長公記』の記述に忠実な正面強襲説が有力である。
牛一の記述はこうだ──信長は中島砦から出撃し、「敵は宵に兵糧を使い、夜通し働いて疲れた兵。こちらは新手である。運は天にあり。かかれ」と下知した──。
乱戦の中で義元の旗本は崩れ、毛利新介が義元を討ち取った。迂回の神話を剥がすと、そこに現れるのは、情報で敵の弛緩を確信した指揮官の、計算された正面攻撃であった。




