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第一層──敵はどこにいるか
『信長公記』によれば、決戦当日の朝から昼にかけて、信長のもとには前線からの注進が次々と届いている。今川方の砦攻撃の状況、そして決定的だったのは、義元本隊の位置情報である。
義元本陣が桶狭間山で人馬を休めている──この一報を、通説は地元の情報提供者や物見の功とし、簗田政綱の注進の逸話として伝えてきた(簗田が戦後、最大級の恩賞を受けたとされることが傍証に引かれる)。
ここで思い出すべきは第十二章の情報生態系である。
尾張は信長の地元であり、村々の百姓、商人、寺社、土豪のすべてが潜在的な報告者だった。対する今川軍は、遠征軍として敵地の生態系の外にいる。しかも大軍ゆえに行軍は分散し、本隊の位置は刻々と変わる。
ホームの網の中で戦う二千と、アウェーで目隠しされた二万五千──情報の次元では、兵力比は逆転していた。
信長が事前に打った布石も見逃せない。
今川方に寝返っていた鳴海城・大高城の周囲に、信長は複数の付城(丹下・善照寺・中島・丸根・鷲津)を築いて封じ込めていた。
この砦網は軍事拠点であると同時に、敵の動線を限定し観測する装置である。敵がどこを通り、どこを攻めるかを、あらかじめ狭い選択肢に絞り込んでおく──義元本隊の位置予測は、この設計の上に成り立っていた。




