敦盛を舞う男
永禄三年(一五六〇)五月十九日、未明の清洲城。
今川方が丸根・鷲津の砦に攻めかかった、との注進が飛び込んだとき、織田信長の取った行動を、側近くに仕えた太田牛一は後年『信長公記』にこう書き残している。
信長は幸若舞「敦盛」の一節を舞った。
──人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか──。
舞い終わると、法螺を吹け、具足をよこせ、と命じ、立ったまま湯漬け(ゆづけ)をかき込み、兜を着けるや馬に飛び乗って、城を駆け出した。
従う者、主従わずか六騎。雑兵二百ばかりが後を追った──。
前夜の軍議で、信長は作戦をいっさい語っていない。重臣たちは「運の末には知恵の鏡も曇るというが」と嘲笑気味に退出したと牛一は書く。
つまり織田家の重臣たちすら、当主が翌朝どう動くのか知らなかった。二千対二万五千(今川方の号する兵力は四万五千)。誰がどう計算しても勝ち目のない朝に、当主は舞を一差し舞って、単騎同然で飛び出した──。
実に、芝居がかった場面である。
実際、後世の芝居はこの場面を存分に使った。だが本章は、この朝を「若き英雄の霊感」としてではなく、周到な情報戦の最終工程として読み解く。
舞っていた男の頭の中には、この数年で組み上げた尾張の情報網と、この朝届き続ける注進の断片が、時々刻々と組み合わさっていたはずなのである。
奇跡に見えるものを分解すること。すなわち、それが調略史の仕事である。




