二度の離反
永禄七年(一五六四)に長慶が死ぬと、三好政権は三人衆と久秀の間で割れ、畿内は内戦状態となった。
東大寺大仏殿が焼けたのは、この内戦中の戦い(永禄十年)においてである。劣勢の久秀は冒頭の通り信長にいち早く臣従するが、その後、二度離反する。
一度目は元亀三年(一五七二)頃、信玄西上と包囲網の高揚期。信玄の死で網が崩れると、多聞山城を差し出して降伏し、赦された。
二度目は天正五年(一五七七)、謙信西進と本願寺健在の局面で、信貴山城に籠もった。久秀の挙兵は常に「外部の勝算」の高まりと同期している──この計算構造は第十九章で改めて論じる。
信長は二度目もまず使者を送り、名物茶釜「平蜘蛛」を差し出せば命は助けると伝えたという。久秀はこれを拒み、信貴山城に火を放って果てた。俗説の語る「茶釜に火薬を仕込んで爆死」は後世の脚色である。
この男の死を、同時代の隣人がどう見ていたか。
興福寺の僧・英俊の日記『多聞院日記』は、大和で久秀の支配と長年向き合ってきた立場から、その滅亡を記録している。趣旨はこうだ──松永父子は滅んだ。かつて東大寺の大仏を焼いた天罰が、同じ十月十日に巡ってきたのだ、と。
大仏炎上と同月同日の滅亡という符合に、日記の筆者は因果の成就を見た。事実として日付が符合したのか、記憶が物語に引き寄せられたのかは措く。重要なのは、久秀の死が、同時代人にとってすでに「天罰の物語」として消費されていたことことである。
悪名の引受人は、死の瞬間から、勧善懲悪の教材に加工され始めていた。




