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実務家としての登場──三好政権の官房長官
久秀の出自は山城西岡の土豪とも阿波とも言われ、確かなことは分からない。
史料に現れる初期の久秀は、三好長慶の右筆・取次──つまり文書と交渉の実務家であった。斎藤道三父子と同じく、久秀もまた「読み書きと交渉」を入口に武家権力の中枢へ潜り込んだ。
三好長慶は、主家の細川氏を実力で凌ぎ、将軍義輝を京都から追い、畿内一円を支配した「最初の天下人」と再評価される人物である。
久秀はこの三好政権で、京都の市政・訴訟・寺社対策を束ねる官房長官格に昇り、ついで大和一国の経略を任された。
大和は興福寺が事実上の守護を務める寺社勢力の国であり、武家の支配が最も難しい土地である。久秀はここで多聞山城を築き、筒井氏ら在地勢力を切り崩し、数年で大和の大半を制した。
多聞山城は、天守の先駆とされる四階櫓と、白壁の多聞櫓をめぐらせた革新的な城郭で、訪れた者が記録に残すほどの威容と美観を誇った。
城は軍事施設であると同時に、権力の広告塔である。成り上がり者ほど、視覚的な権威の演出に投資する──信長の安土城に先立つこと十年、久秀はそれを実践していた。




