雪斎 小括──参謀という発明
外交僧は、教養・中立性・寺院網を資本とする戦国の職業外交官であり、雪斎はその機能を「国政参謀」の水準まで拡張した。
花倉の乱の政権樹立、三国同盟の設計、人質外交の運用、そして実力主義の明文化と、雪斎時代の今川の仕事は調略のあらゆる局面に及ぶ。だがその機能はきわめて属人的で、死とともに失われ、今川の凋落を早めた。
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さて、第二部の最後を飾るのは、外交僧とは対極の、僧形の梟雄である。主家を替え、将軍殺しと大仏焼亡の汚名を着て、しかし茶の湯と築城の文化人でもあった男──松永久秀。
戦国で最も評判の悪いこの男の手口を検分すれば、「悪名」もまた調略の通貨であったことが見えてくるだろう。
今川義元と雪斎のコンビがいた頃の駿府って、実は「東国の京都」だったんです。
応仁の乱で京都がグチャグチャになったもんで、公家も坊さんも連歌師も絵師も「今川さんのところは安全らしい」とゾロゾロ下ってくる。で、気がついたら駿府に和歌だの連歌だの蹴鞠だの有職故実だののサロンができてしまった。冷泉家の歌人が滞在してたり、宗長みたいな一流連歌師が今川の外交官として働いてたり。いや、けっこうガチだったんですね。
まあ、それはいいとして——これ、殿様の趣味や道楽じゃないんですよ。
まず、文化人が来ると京都の最新情報もセットでついてくる。連歌師って要は歩く通信社ですからね。次に、官位ほしいとか幕府と話つけたいとかいうときに、「作法」のわかる人を手元に置いておける。これが地味に効くわけです。で、三つ目。「今川の座敷に呼んでもらえる」ってこと自体が、周りの国人からしたらもうステータス。文化って、いちばん優雅な顔したインフラだったんだなと。
あとついでに。義元が「公家かぶれ」って笑われるときに必ず出てくるお歯黒と置眉、あれ今川文化圏では標準装備なんですよ。いわば当時の一流の身だしなみでした。まあ、京都の作法で決めてる大名を笑うんなら、作法で京都に勝ってからにしましょうよ、という話ですね(笑)
- 『今川仮名目録』および『仮名目録追加』(『中世法制史料集』所収)──「自分の力量を以て」の条文
- 有光友學『今川義元』(吉川弘文館・人物叢書)──義元・雪斎政権の実証研究
- 大石泰史『今川氏滅亡』(角川選書)──今川権力の構造と崩壊
- 小和田哲男『今川義元』ほか──義元再評価の諸研究
- 『言継卿記』ほか公家日記──駿府文化圏と公家の下向
- 臨済寺の寺伝・今川氏関係文書──雪斎と竹千代養育の伝承(史実性の階層に留意)




