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雪斎死後──参謀機能の属人性
弘治元年(一五五五)、雪斎は死去する。
義元の悲劇は、この頭脳の後継者を制度化できなかったことにある。外交僧は職能として存在したが、雪斎級の統合参謀は属人的な存在であり、代替が利かなかった。
永禄三年(一五六〇)、義元は大軍を率いて尾張へ進み、桶狭間に斃れる(次章)。
ここでは一点だけ指摘しておこう。桶狭間の敗因として古くから語られる油断・慢心の類よりも、構造的な敗因は情報の非対称にあった。
地元尾張の情報生態系を掌握する織田信長に対し、遠征軍の今川はその外にいた。
雪斎在世時の今川外交が誇った情報力が、この時どこまで維持されていたか──「雪斎がいれば」という後世の嘆きは、単なる感傷ではなく、参謀機能の属人性という組織論的欠陥を突いている。
参謀の制度化──この課題は、やがて信長の官僚団、秀吉の弟秀長と黒田官兵衛、家康の本多正信・崇伝・天海へと、次代に持ち越されていく。




