甲賀と伊賀──自治する傭兵の里
忍びの本場とされる甲賀(近江南部)と伊賀は、なぜ「本場」になったのか。答えは地政学にある。
両地域は京都に近い山間地で、大名権力の空白地帯だった。数十の小土豪が割拠し、彼らは「郡中惣」「惣国一揆」と呼ばれる合議制の連合を作って自治を行った。
ここで、現存する稀有な史料を読もう。
「伊賀惣国一揆掟書」──伊賀の土豪たちが定めた、十一ヶ条の自治憲法である。その条文の趣旨を拾うと、実に生々しい。
他国の軍勢が国境に攻め寄せたときは、鐘を撞き鳴らして知らせ、めいめい所定の場所に馳せ参じて防戦すべきこと。
十七歳から五十歳までの者は陣夫として出動すべきこと。
戦功のあった者には、惣国として恩賞を与えるべきこと。
他国の者を国内に引き入れる裏切り者は、成敗すべきこと──。
大名を持たない共同体が、防衛・動員・論功行賞・防諜までを、合議の掟で自前運用していたのである。軍事同盟と自治体と労働組合を兼ねたような、日本史上でも異色の政治体だった。
つまり彼らにとって、近隣大名への軍事奉公──夜討ちや城番などの請負仕事──は、自治を守るための外貨獲得手段であり、忍びとは、山間自治共同体の輸出産業だったのである。
甲賀者の名を高めたのは鈎の陣(長享元年〔一四八七〕)の伝承で、将軍義尚の六角討伐に際し、六角方に付いた甲賀の土豪たちが幕府軍への夜襲やゲリラ戦で名を馳せたという。由緒書の誇張はあろうが、北条氏の風魔一党、武田の透波、上杉・徳川の「草」の運用など、忍び働きの記録は列島の東西に及ぶ。




