四十九年、一睡の夢
天正六年(一五七八)三月、謙信は関東・上洛をにらむ大動員の準備中、春日山城で急死する。享年四十九歳。伝えられる辞世がある。
「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」
四十九年の生涯は、ひと眠りの夢。一生の栄華は、一杯の酒のようなものだった──。禅味の深いこの偈は、後世の仮託の可能性も指摘されるが、謙信という人物像の総決算として長く愛誦されてきた。
毘沙門天を信じ、出家の身で戦場に立ち続け、妻を持たず、獲得した関東の版図はほとんど手元に残らなかった男の生涯を、「一盃の酒」と括る潔さ。
だが、一盃の酒しか残らなかった、というのは正確ではない。謙信が残したのは、莫大な無形資産だった。
まず、有形の側から見よう。謙信の死の直後、後継の座を争った景勝がまっ先に押さえたのは、春日山城の本丸と金蔵である。蔵には黄金二万七千百四十両が遺されていたと伝わる。数字に誇張はあろうが、桁外れの蓄財があったこと自体は疑われていない。
これらの原資は略奪ではない。越後の特産・青苧──衣料の原料となる麻の繊維──の流通を座として統制し、柏崎・直江津の湊に上がる商いから収益を吸い上げる。義の看板の下で堅実に運用された、領国経営の産物である。関東で版図を残さなかった軍神は、日本海側では抜け目のない重商主義者だった。
また、その「義」という看板がどれほどの信用力を持ったかは、敵の側の記録が証言している。
「塩」のエピソードは既出の通り。極めつきは信玄の臨終だ。『甲陽軍鑑』によれば、信玄は勝頼に「頼るべきは謙信である。あの男は、頼まれれば見捨てぬ」と遺言したという。
川中島で五度殺し合った宿敵が、最期に子へ残した助言が「謙信を信じよ」だった。そして勝頼は実際、謙信の死後に起きた御館の乱で上杉景勝と結び、武田と上杉は最後に手を握る。評判とは、敵ですら引き出しに来る預金なのである。
配当は、死後も止まらなかった。
上杉家は謙信の遺骸を、甲冑を着せて甕に納めたと伝わる姿のまま、会津へ、米沢へと、移封のたびに携えて運んだ。百二十万石が三十万石に、やがて十五万石に削られても、家祖の甕だけは城の本丸に祀られ続けた。
そして二百年後、破産寸前の米沢藩を建て直した上杉鷹山の改革を精神面で支えたのは、この家祖の遺徳であり、産業面の柱の一つは、皮肉にも青苧だった。
原料のまま他国へ売られていた青苧を藩内で織物に加工し、やがて絹織(米沢織)へと育てる。謙信が湊で稼いだのと同じ作物が、二世紀を経て、形を変えて藩を救ったのである。
遺言を残さぬ急死が御館の乱という高い相続税を招いたことは、帳簿の借方に記しておかねばなるまい。それでもなお──義とは、最も償却期間の長い投資である。軍神の帳簿は、死後にこそ黒字を出した。




