信玄 小括――工業化された調略とその死角
信玄の調略を総括する。
いわば、標的分析から内応、進攻、本領安堵、婚姻固定までの標準工程化である。真田のような専門家の登用。三国同盟の幾何学。退転禁止と情報統制。自己拘束による求心力の演出。いずれも、個人の閃きを組織の手順に置き換える方向を向いていた。
この「手順化」が何を可能にしたか、一つの城が雄弁に物語る。
天文十九年(一五五〇)、信玄は信濃の砥石城を力攻めし、村上義清に大敗した。世に言う「砥石崩れ」である。重臣横田高松を含む千人近くを失う生涯最大級の敗戦だった。ところがその翌年、真田幸隆がこの難攻不落の城を、ほとんど兵を動かさずに落とす。
城兵への内応工作──幸隆はもともと砥石にほど近い小県の豪族であり、城内の在地武士の縁者や旧知を一人ずつ口説ける立場にあった。総大将が千人を失って落とせなかった城を、地縁を持つ専門家は調略一つで開けたのである。信玄がここから学んだのは屈辱ではなく、その方法だった。以後、武田の信濃経営は「調略は地縁を持つ者に任せ、本隊は決着後に進む」という分業を基本形とする。
工程の完成形は、晩年の駿河侵攻にも見ることができる。
永禄十一年(一五六八)、信玄は今川領へ攻め込む前に、今川家臣団の切り崩しをあらかた終えていた。葛山・瀬名・朝比奈ら駿河の有力国衆二十一人が、侵攻開始の時点ですでに武田へ通じていたと伝わる。今川氏真は薩埵峠に軍を出したものの、諸将の寝返りが相次いで戦線は戦う前に溶け、氏真は駿府を捨てて逃れた。桶狭間で当主を失って八年、名門今川家はこの一戦──というより「戦にならなかった一戦」──で事実上崩壊する。
標的を選び、事前に内応の網を張り、進攻は仕上げにすぎない。標準工程が教科書どおりに回った、模範解答のような侵攻である。
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さて、戦国調略の「工業化」は信玄において最初の完成を見た。次章では、この信玄の対極に立った男を見てみよう。調略の時代にあって、調略を「義に非ず」として拒んだ──少なくともそう演出し続けた──上杉謙信である。
信玄の発給文書には、細やかを通り越して、いささかマメすぎる気配りの手紙が多く残っています。病気の家臣には薬の処方と養生の指示を書き送り、戦功の家臣には「あのときのあの働き」と具体的に挙げて褒め、人質として預かっている子どもの成長ぶりを、わざわざ親元に知らせてやる。有名なところでは、家臣の母の病気を気遣って、湯治を勧める書状まで残っています。戦国最強の恐ろしい大名が、部下のお母さんに温泉を勧めているのです。
とおいうわけで、恐怖で統べたイメージの強い信玄ですが、実務の現場を見るかぎり、武田の統制は膨大な「気配りの文書」で潤滑されていました。考えてみれば当然です。退転(転職)は禁止、誓紙で縛られ、妻子は人質。これを恐怖だけで運用すれば、組織は必ずどこかで破裂します。締め付けの強い組織ほど、細やかなケアが要る。信玄の手紙は、甲州流という締め付けシステムに必須の潤滑油だったのですね。
現代の管理職が学ぶべきは、こちらの筆マメの方かもしれません。部下の家族の体調を覚えていて、具体的に褒めて、こまめに連絡を入れる──言われてみれば、どこの研修でも教わる内容です。ただし現代でこれをやる場合、妻子を人質に取る工程は省略してください(笑)。
- 『甲州法度之次第』──最終条(当主の自己拘束条項)を含む分国法(『中世法制史料集』所収)
- 生島足島神社文書(下之郷起請文)──義信事件後の家臣団誓約(第四章参照)
- 『甲陽軍鑑』──三年秘喪の遺言ほか武田家の伝承(成立過程に留意しつつ活用)
- 武田信玄発給文書──家臣への気配りの書状群(『戦国遺文 武田氏編』)
- 平山優『武田氏滅亡』(角川選書)──一門衆連鎖離反の過程
- 笹本正治『武田信玄』──実証的な信玄伝
- 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』ほか──真田氏の調略と武田家中での役割




