多正面の調略戦の終わり
信玄の後半生は、宿敵上杉謙信との川中島五回戦と並行して、遠交近攻の多正面外交に費やされた。
関東では北条と結んで謙信の背後を脅かし、越中・加賀の一向一揆と連携して謙信の側面に火を付け、京都の将軍義昭とも誼を通じる。信玄の正室三条の方は本願寺・法主顕如の正室と姉妹であり、武田と本願寺は縁戚であった。晩年、信長との関係が破綻すると、信玄は義昭・本願寺・朝倉・浅井と結ぶ信長包囲網の東の主柱となり、西上作戦を発動した。
内応工作も最後まで信玄の主兵器だった。
西上作戦の緒戦、三河・遠江の徳川方国人は次々と武田に靡き、要衝の城が戦わずして開いた。三方ヶ原で家康に大勝した信玄が、しかし、その数ヶ月後に陣中で病没したとき、包囲網の東半分は音を立てて崩れる。
自らの死を三年秘匿せよと遺言したと『甲陽軍鑑』は伝えている。実際に武田家は喪を伏せ、周辺国は長く真偽を測りかねた。当主の生死という最重要情報を空白にすることで、敵の意志決定を凍結させる──死してなお、信玄は情報戦を戦っていた。
だが、属人化を脱したはずの甲州流も、大戦略の統合だけは信玄個人に依存していた。その限界は、勝頼の代の悲劇──長篠、そして天正十年、木曽・穴山ら一門衆の連鎖離反によるわずか一ヶ月の滅亡──として現れる。
工程化された調略は、同じ工程を学んだ敵には読まれる。武田を解体したのは、武田の手口を知り尽くした織田・徳川らの逆調略だった。




