人は城、人は石垣、人は堀
信玄の言葉として名高い「人は城、人は石垣、人は堀」は、甲斐に石垣造りの巨城を築かなかった信玄の統治哲学として引かれる。
しかし、この美句には裏面がある。
武田家の分国法『甲州法度之次第』は、家臣の他国への退転(逃亡・転仕)を厳しく禁じ、他国との私的な文通を統制した。人が城であるからこそ、人の流出と敵の調略への接触は、城壁の崩壊として扱われたのである。
だが『甲州法度之次第』で最も驚くべきは、その最終条である。
その趣旨を掲げよう──晴信(信玄)自身の行いがこの法度に背くことがあれば、身分の上下を問わず、目安(訴状)をもって申し出よ。見当の上、改めるであろう──。分国法の最後に、立法者みずからを法の下に置く条文が据えられているのである。戦国大名の法としては異例であり、近代の法治の萌芽とすら評される。
もっとも、これを信玄の謙虚さと読むのは甘い。
本書の読者なら、裏の機能までで読めるはずである。「主君も法に従う」という宣言は、家臣団に対する最強の説得材料だ。喧嘩両成敗で私戦を禁じられ、退転を禁じられ、誓紙を取られる家臣たちに、「ただし殿も同じ法の下にいる」という一条は、統制を公平の物語に変換してくれる。
権力者の自己拘束は、それ自体が求心力への投資である──この計算ができる点にこそ、信玄の非凡さがあった。もちろん、実際に信玄を訴え出た豪傑がいたかどうかは、記録が語らない。訴訟窓口は、存在することに意味がある種類の窓口だったのであろう。
後日談を付しておく。この「法の石垣」が本当に試されたのは、信玄の死後であった。
天正十年(一五八二)、木曾義昌の離反を口火に織田軍が侵攻すると、一門衆の穴山梅雪までが敵に通じ、武田家は大きな合戦をほとんど経ないまま瓦解する。
人は城、人は石垣──その言葉自体は正しかった。ただし、人心という城壁は、詰まるところ「この主君の下では公平に扱われる」という信頼を漆喰としており、それが剥がれ落ちたとき、石造りの城よりもろく崩れる。最終条の一枚が支えていたものの大きさを、武田家はその滅び方によって証明したのであった。




