三国同盟──外交の幾何学
天文二十三年(一五五四)、武田・今川・北条の三家は相互に婚姻を交わし、甲相駿三国同盟を成立させた。
信玄の娘が北条氏政に、北条の娘が今川氏真に、今川の娘が武田義信に、それぞれ嫁ぐ三角縁組である。
この同盟の妙は、三家それぞれの膨張方向を互いに直交させた点にあった。
武田は北(信濃・越後)へ、北条は東(関東)へ、今川は西(三河・尾張)へ。背後を相互に保障し合うことで、三家は正面の敵に全力を注げる。
同盟とは単なる不可侵の約束ではなく、戦略方向の交通整理である──この設計思想は、当時の外交としては突出して幾何学的だった。
そして信玄は、この同盟を状況が変われば躊躇なく破る。
桶狭間で義元が横死し今川が弱体化すると、信玄は駿河侵攻に舵を切り(永禄十一年)、同盟は瓦解した。
この決断はとうぜんに嫡男義信(今川の婿)との路線対立を招き、義信は謀反の嫌疑で廃嫡・幽閉の末に死ぬ。同盟破棄の代償を、信玄は息子の命で払ったことになる。
外交の転換が家中の粛清を要求する──婚姻同盟の網は、破るときには自分の肉も裂くのである。
第四章で見た生島足島神社の起請文群──家臣団への忠誠の一斉誓約──が、まさにこの義信事件の直後に集中していることを思い出してほしい。要するに、同盟破棄と粛清で軋んだ家中を、信玄は誓紙の網で締め直したのだった。




