システムとしての調略
これまで見てきた早雲・元就・経久・道三の調略は、いずれも当主個人の頭脳に依存していた。しかし、武田信玄の新しさは、調略を属人技から組織の機能へと移し替えた点にある。
信玄の信濃攻略は約二十年を要した長期事業だったが、その手順は驚くほど一貫している。
(一) 対象地域の国人の系図・縁戚・係争を調べ上げる。
(二) 不満分子・傍流に使者を送り、所領安堵と加増を約束して内応させる。
(三) 内応の手引きで侵攻し、抵抗する本家を潰す。
(四) 降った国人は本領を安堵し、武田軍団の先方衆(先鋒部隊)に編成する。
(五) 娘・養女の婚姻で縛る。
──この五工程が、諏訪でも、佐久でも、伊那でも、判で押したように反復される。
諏訪攻め(天文十一年)はこの型の初出である。
信玄は諏訪頼重の一族・高遠頼継の領土的野心を煽って味方につけ、諏訪を挟撃した。頼重を降して甲府で自害させた後、今度は用済みとなった頼継を「諏訪の正統を守る」名分で討ち、諏訪領を丸ごと併呑する。
さらに頼重の娘を側室に迎え、生まれた勝頼に諏訪家の名跡を継がせた。内応者を使い捨て、滅ぼした家の血と名跡は自家に取り込む──これは冷徹だが、諏訪の民と旧臣から見れば「諏訪家は武田の中に続いている」形が残る。占領統治の摩擦を名跡の継承で潤滑する、元就と同型の技術である。
信濃経略で特筆すべきは、真田幸綱(幸隆)の登用であった。
幸綱は武田の侵攻で所領を失った小県の国人だったが、信玄はこれを破格の条件で召し抱え、旧領回復を約束した。
幸綱は上州・信州の国人網に深い人脈を持ち、難攻不落とされた砥石城──村上義清の拠点で、信玄自身が力攻めに失敗し「砥石崩れ」の大敗を喫した城──を、調略によってほぼ無血で落とした(天文二十年)。
当主が力攻めで落とせなかった城を、雇われた亡命者が言葉で落としたことになる。敵地の人脈を持つ者を調略の専門家として処遇する信玄の人事は、調略を「外注可能な専門職能」として扱った最初期の例なのだ。
真田家が以後、幸綱・昌幸・信繁と三代にわたり謀略の家として名を馳せる出発点がここにあった。




