尼子経久 小括──下剋上第一世代の限界
経久の生涯から引き出せる教訓を整理する。
第一に、下からの推戴は上からの任命より強いが、買い続けなければ切れる。
第二に、分配で束ねた権力は、拡大停止と同時に逆回転する。
第三に、家中の力の偏在は、外敵にとって最上の攻撃面になる。
そして第四に──これは経久自身というより尼子家全体の教訓だが──謀略で興した家は、謀略への警戒心そのものによって内側から蝕まれ得る。新宮党誅殺は、疑心という調略の残留毒が、工作者の手を離れて自走した事例として読める。
山陰の謀聖の物語はここまでとし、次章では舞台を美濃に移そう。
油売りから国主へ──長く「一代の梟雄」と信じられ、近年の研究で「父子二代の事業」へと書き換えられた男、斎藤道三。
その国盗りは、経久の下剋上とはまた異なる型、すなわち主家への寄生と段階的な成り代わりの技術を示している。
さて、尼子家は月山富田城の開城で大名としては滅びましたが、物語としてはむしろそこから成長していったんですよね。
立役者がまさに遺臣・山中幸盛(鹿介)です。「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという伝承で知られるあのヒトですね(笑) この男は、尼子の遺児勝久を擁して再興軍を起こし、但馬、因幡、播磨と転戦して毛利を悩ませ続けました。
再興は上月城の落城(第二十三章)でついえ、幸盛も護送中に謀殺されますが、「主家再興に殉じた忠臣」の物語は江戸時代に爆発的な人気を得て、教科書にまで載る国民的美談となったようです。
それにしても皮肉な話ですね。謀略で成り上がり、謀略で滅んだ尼子家の名を後世に残したのは、その経久の謀才ではなく、遺臣の忠義の物語だったわけです。家は滅んでも、物語は主家の看板を掲げて戦い続ける。滅亡した家の「ブランド」が遺臣の旗印として運用される感じは、尼子再興軍のほか、後の豊臣浪人たちにも見られますね。これって倒産した会社の元社員が旧社名で結束するようなものですが、彼らの退職金は、命がけの戦場にしかなかった――わけです。いや、実に皮肉(笑)
- 『雲陽軍実記』──月山富田城奪回譚など尼子氏の軍記(江戸期成立、史実性に留意)
- 『塵塚物語』──庭の松の逸話(説話集としての性格に留意)
- 長谷川博史『戦国大名尼子氏の研究』──実証的な尼子氏研究の基本文献
- 米原正義『出雲尼子一族』──尼子氏の通史
- 毛利家文書──新宮党誅殺前後の毛利側の動向
- 妹尾豊三郎ほか月山富田城跡の調査報告──城郭遺構から見た尼子氏




