庭の松を掘って与える男
経久の人物像にについて、説話集『塵塚物語』に奇妙な逸話がある。
経久は人から何かを褒められると、それがどんな重宝なものでも、その場で相手に与えてしまう、というものだ。
家臣たちはいきおい、主君の持ち物を褒めることを控えるようになった。ある者が、これなら大丈夫だろうと庭の見事な松を褒めたところ、経久は人夫を出してその松を掘り起こし、褒めた者の屋敷まで届けさせた──。
逸話の真偽は確かめようがない。
褒め言葉の在庫が尽きた尼子家中の会話がどれほど不自由だったかを想像すると微笑ましいが、この「病的な気前の良さ」の伝承は、経久の統治スタイルの記憶をとどめている可能性がある。
すなわち、蓄積した富を独占せず、絶えず家臣と国人に分配し続けることで、求心力を維持する君主像である。守護のような制度的正当性をもたない下剋上の主にとって、忠誠は日々買い続けなければならない消耗品だった。
経久の気前は美徳ではなく、正当性なき権力の維持コストだったのではないか。
そして、この分配依存の構造は、尼子権力の強みであると同時に弱みでもあった。
拡大が続き分配原資が増える間は結束するが、拡大が止まれば分配するものが減り、遠心力が働く。はたして、後年、毛利元就がこの構造的弱点を正確に突いてくることになる。
分配権力の脆さは、経久の存命中に、最も残酷な形で証明されている。
享禄・天文年間、経久に反旗を翻したのは、ほかならぬ実の三男・塩冶興久だった。出雲西部の名族塩冶氏を継いでいた興久は、所領要求のもつれなどから父に挙兵し、数年に及ぶ内戦の末に敗れて自害する。
息子の遺骸を前にした経久の心中は史料にはないが、事件の構図は明白である。息子といえども、分家として力を与えれば、分配への不満は反乱に育つ。
謀聖の家は、謀聖の目の黒いうちから、内側の遠心力と戦っていた。やがて、孫の晴久が新宮党に振るった刃は、この家の宿痾の再発だったのである。




