追放と奪回──守護代の下剋上
尼子経久は、出雲守護代の家に生まれ、一度は守護に追放されて所領を失い、そこから月山富田城を回復して出雲を制し、最盛期には山陰山陽十一ヶ国に影響力を及ぼしたとされている。むろん、実効支配の範囲には議論があるが、中国地方最大勢力であったことは動かない。
時代としては早雲とほぼ同世代である。そして元就よりは一世代前の人であり、下剋上第一世代の到達点を示す人物である。
経久は文明年間、守護京極氏の守護代として出雲に在った。幕府・守護の命に背いて段銭(臨時税)を横領したなどの咎で守護代職を解かれ、その結果、月山富田城を追われた(文明十六年〔一四八四〕頃)。
この追放劇の裏には、経久が国人層と結んで税の京都送付を止め、地元に留保しようとした、つまり出雲の富の地元化を図ったことがあったと見られる。
中央への上納を切って地方に配る。下剋上の経済的本質が、ここにある。要するに経久は、本社への上納金を勝手に支店の経費に使って更迭された支店長である。ただし、この支店長は、地元の取引先を全部握っていた。
追放された経久の復権が、中央(幕府・京極)の任命ではなく出雲国人の支持によって成し遂げられたことは、彼の権力の正確を決定づけた。守護代という「トップダウン」を失った経久は、「ボトムアップ」で戻ってきたのである。この復活劇こそ、彼の下剋上の核心であった。




