権威と信仰──そして執念
元就は、実力の人でありながら、権威の調達にも余念がなかった。大内氏滅亡後、大内家が担っていた対朝廷・対幕府の窓口機能を素早く引き継ぎ、朝廷に献金して官位を得、毛利の献金は正親町天皇の即位の儀を支えた。
地方の一国人上がりが、天皇の即位を後援する──これは安芸・備後の国人たちに対する何よりの格付けの宣伝であり、「毛利に降ることは恥ではない」という空気を作る文化的調略だった。第三章で見た「権威の換金」の、模範的な実例である。
また元就は、前述のように厳島神社を崇敬し、社殿を修復し、合戦の勝利を神慮として演出した。信仰は民と兵の心を束ね、敵の調略への防壁となった。
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さて、冒頭で描いた自筆の長文書状──いわゆる三子教訓状は、現物が毛利博物館(山口県防府市)に伝来し、国の重要文化財に指定されている。死の床で三本の矢を折らせる有名な逸話は、この教訓状を種とした後世の創作だが、実物の教訓状は、創作よりはるかに生々しい。
第一条で元就は言う。この書状は他見を憚る、読んだら三人で回覧の上、返却せよ──家族内の私信であることを、まず念押しする。そして繰り返される核心。
「三人の半、少しにても悪しく候はば、三人ながら滅亡と思し召さるべく候」──三人の仲が少しでも悪くなれば、三人とも滅ぶと思え。隆元には、弟二人を疎かにするな。元春・隆景には、兄を粗略にするな。他家を継いだ身であっても、毛利の二字を忘れるな。そして亡き妻への追慕──「妙玖のこと、思い出し候へば、なかなか申すばかりなく候」──妙玖を思い出すと、言葉にならない──。
謀略の帝王が、家族への手紙でだけ見せた素顔である。
だが本書は、この手紙を「意外な人間味」の挿話として消費したくない。教訓状の懇願と、両川体制の構造設計は、同じ一つの認識から出ている。
すなわち、人の心は変わる、という認識である。心が変わっても壊れないように構造を組み(両川)、構造だけでは足りない最後の隙間を、情の言葉で塗り込める(教訓状)。調略の名人が自分の家に施した防諜設計は、構造と情の二重構えだった。
事実、毛利家は元就死後、信長・秀吉という史上最強の調略者たちと対峙しながらも、家中を決定的には割られることなく、近世大名として存続する。戦国の家としては、驚異的な耐久性である。
ところで、教訓状には、痛ましい後日譚がある。
永禄六年(一五六三)、長男隆元が、出雲遠征への途上、和智誠春ら国人の饗応を受けた直後に急死したのである。四十一歳。当然、毒殺が疑われた。
元就の悲嘆は深く、数年後、嫌疑をかけた和智誠春らを誅殺している。真相は今も分からない。だが本書の文脈で見逃せないのは、疑心と粛清の連鎖──元就が生涯敵に仕掛け続けた毒が、最晩年、自身の心中で作動してしまったことである。
息子の死を謀略と読む以外の読み方を、この男はもう持っていなかったのかもしれない。調略の名人の職業病は、世界のすべてが調略に見えることである。そして数年という時間を経てもなお、この悲哀を忘れるどころか、仇敵を倒すがごとく謀殺を遂げてしまうあたりは、執念の人と呼ぶにふさわしいであろう。




